East Almanac
日本語

22. 山火賁 (贲)

第5爻

この爻が動けば に変じる 37. 风火家人 (家人)
六五:丘園に賁る。束帛戔戔たり、吝なれども終には吉なり。

現代解釈

山火賁の六五は、豪華な飾りよりも質素で温かみのある誠実さを尊び、素朴な歩みの中に真の喜びを見出す爻です。形式にとらわれない飾らない真心が、周囲の共感を呼び起こし、息の長い幸運へと結びつきます。

AIにこのページを聞いてみる

リンクはプロンプトを事前入力するだけで送信しません — 主導権はあなたに。リンクが効かない場合は下のプロンプトをコピーしてください。

プロンプトプレビュー
易経・四柱推命のリーディング依頼(eastalmanac.com より)。
Page: Hexagram 22 贲 — 第5爻.
二層構造で解釈してください。1)理法の根拠:卦爻の変爻や干支五行の力点と注意すべき盲点。2)実践的アドバイス:問いに対する率直な結論、動詞から始まる2〜3の具体的な行動指針と内省の要点。決定論を排し、自省と意思決定の参考にしてください。出典・詳解:
https://eastalmanac.com/ja/yijing/22/5

易の占い

尊位にある六五は、柔順中正の徳を持ちながらも派手な贅沢を好まず、自然の丘園で質素な絹束を差し出す姿をとります。伝統的な易の解釈では、外見の捧げ物はささやかで一見不器用に見えても、内実の真心が賢者に通じるため、最終的に大きな吉運と喜びをもたらすと説かれます。派手な演出を追わず本質的な真心を行動に移すことで、長期的な信頼が育まれます。

仕事・キャリア

組織や実務において、六五は虚飾を排した実直なマネジメントや、丁寧な関係構築が実を結ぶ時期を表しています。小象伝に喜びがあると記されるように、大風呂敷を広げるよりも手元のリソースを大切にして誠意を尽くす姿勢が、同僚や協力者の深い共感を集めます。背伸びをせず等身大の実績を地道に積み重ねることが、確固たる評価と支持の獲得につながります。

恋愛・対人

パートナーシップにおいては、豪華なプレゼントや仰々しい演出よりも、日常の中にある温かい気遣いが何よりの絆となります。伝統的な視点でも、飾り気のないささやかな心遣いこそが互いの距離を縮め、本物の安心感をもたらすとされます。肩肘張らない自然体の交流を慈しむことで、二人の関係はより穏やかで深いものになります。

金運

財政管理の面では、節約を心がけて無駄を省き、日々の小さな蓄えを重んじる堅実な姿勢が適しています。目先の見栄えに資金を費やすのではなく、実用的な用途に絞って資源を配分することが将来の安心につながります。質素倹約を前向きに捉えて身の丈に合ったやり繰りを続けることで、着実に手元が潤っていきます。

参考資料

原文

小象伝

六五の吉は、喜びあるなり。

古典注釈

周易本義爻辞

「戔」は在千の音であり、また牋の音である。六五は柔中にして賁の主であり、本を敦くし実を尚びて賁の道を得る。ゆえに丘園の象がある。然れども陰の性は吝嗇であるため、束帛戔戔の象がある。束帛は薄い物であり、戔戔は浅く小なる意である。人としてこのようであれば羞吝であるといえども、礼は奢らんよりは寧ろ倹なれであり、ゆえに終には吉を得るのである。

伊川易伝爻辞

六五は陰柔の質をもって上九の剛陽の賢に密比し、陰が陽に比して重ねて繋応するところなくこれに従う者である。上九に賁を受くるのである。古より険を設けて国を守るゆえに、城塁は多く丘坂に依る。丘とは外に在りて近くかつ高き者をいう。園圃の地は城邑に最も近く、これも外に在りて近き者である。丘園とは外に在りて近き者をいい、上九を指す。六五は君位に居りといえども陰柔の才にして自ら守るに足らず、上の剛陽と相比して志はこれに従う。外比の賢に賁るは、丘園に賁るなり。もしよく上九に賁を受け、束帛の戔戔たるが如くその裁制を受くるならば、その柔弱にして自ら為す能わざるが吝少とすべきであるといえども、能く人に従いて賁の功を成し、終にはその吉を得る。戔戔とは剪裁分裂の状である。帛は未だ用いざる時はこれを束ねるゆえに束帛といい、その衣服を制するに及びては必ず剪裁分裂して戔戔然たり。束帛は六五の本質に喩え、戔戔は人の剪製を受けて用を成すことをいう。その人に資するは蒙と同じであるが、蒙に吝と言わないのは、思うに童蒙にして人に頼るはこれその宜しきであるからである。童幼ならずして賁を人に資するは吝とすべきであるが、その功を享受して終には吉となるのである。

伊川易伝小象伝

人に従いて賁の功を成し、その吉美を亨けることができるのは、これ喜びがあるからである。

周易注爻辞

尊位に処して飾りを主とし、飾りの盛んなる者である。飾を物に施すはその道を害する。飾りを丘園に施すは盛んなることこれより大なるは莫い。ゆえに束帛に賁れば丘園すなわち落ち、丘園に賁れば帛すなわち「戔戔」たり。用は倹に過ぐるは莫く、泰にしてよく約す。ゆえに必ず「吝」なればすなわち終吉を得るのである。

周易正義爻辞

「六五、丘園に賁る」から「終には吉」に至るまで。

正義に曰く、「丘園に賁る」とは、丘園は質素の処である。六五は「尊位に処して飾りの主となる」。もし質素の処に飾りを施して華侈に費用をかけなければ、束ねる帛は「戔戔」として衆多となる。「吝なれども終には吉」とは、初めは倹約であるゆえにその「吝」である。必ず倹約の「吝」にしてこそ「終吉」を得て喜びがあるのである。ゆえに『象伝』に「六五の吉は、喜びあるなり」という。

注の「尊位に処す」から「乃ち終吉を得るなり」に至るまで。

正義に曰く、「飾りの主にして飾りの盛んなる者」とは、宮室や車服の属の如きであり、五は飾りの主である。もし華飾を車服宮館の物に施設するならば大道を損害する。「飾りを丘園に施すは盛んなることこれより大なるは莫し」とは、丘とは丘墟をいい、園とは園圃をいう。ただ草木の生ずるところであり、これ質素の処であって華美の所に非ず。もし能く飾りを施し毎事質素にして丘園に似るならば、「盛んなることこれより大なるは莫し」。ゆえに「束帛に賁れば丘園乃ち落つ」とは、束帛は財物である。束帛を挙げて言うならば金銀珠玉の等みなこれである。もしこの束帛や珍宝に賁飾するならば素質の道は隕落する。ゆえに「丘園乃ち落つ」という。「丘園に賁れば帛乃ち戔戔たり」とは、丘園の質素の所に飾りを設ければ財物を靡費せず、束帛は「戔戔」として衆多となる。諸儒は、もし束帛を賁飾して士を聘するを用いなければ丘園の上は落ち、もし丘園の士を賁飾してこれに与うれば束帛は「戔戔」たりと為す。諸家の注易は多くこの解をなす。ただ今案ずるに、輔嗣の注には全く賢を聘する意はなく、かつ爻と象にもまた士を待つの文はない。輔嗣は「用は倹に過ぐるは莫く、泰にしてよく約す、ゆえに必ず吝なれば乃ち終吉を得る」という。これはあまねく国を為すの道を論じ、華侈を尚ばずして倹約を貴ぶのである。もし先師に従い、ただ束帛を用いて丘園を招聘し倹約をもって賢を待つとなせば、豈にその義ならんや。ゆえに漢の隠士を聘するに、あるいは羔雁玄纁や蒲輪駟馬を用い、豈にただ「束帛」の間にとどまりて倹約の事というべきか。今その注の意を観るに、ゆえにこの解をなすのみである。

出典