周易本義爻辞
「躍」は羊灼の反。「或」は疑ってまだ定まらない辞である。「躍」とは拠り所なく大地を絶って跳び上がることであるが、まだ飛翔していない。淵とは上は虚空で下は深く洞穴のように測り知れない場所である。龍がここに在るのは田の下にいるかのようであり、あるいは躍り上がれば天へと向かう。九は陽、四は陰であり、上卦の下に居て改革の際、進退未定の時である。ゆえにその象はこのようになり、その占いは時に随って進退するならば咎なきこととなる。
第4爻
九四:或いは躍りて淵に在り、咎なし。
乾為天の九四は「或いは躍りて淵に在り」と示され、大きく飛翔するか淵に留まるかの判断を迫られる重要な選択期を象徴します。情勢を冷静に見極め、柔軟に状況を試すことで過ちなく次の段階へ進めます。
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易経・四柱推命のリーディング依頼(eastalmanac.com より)。 Page: Hexagram 1 乾 — 第4爻. 二層構造で解釈してください。1)理法の根拠:卦爻の変爻や干支五行の力点と注意すべき盲点。2)実践的アドバイス:問いに対する率直な結論、動詞から始まる2〜3の具体的な行動指針と内省の要点。決定論を排し、自省と意思決定の参考にしてください。出典・詳解: https://eastalmanac.com/ja/yijing/1/4
下卦を脱して上卦の入り口に立ち、変卦が「風天小畜」となることから、状況を観察しながら小さな試行を重ねる柔軟性が求められます。古典の注釈では、進むも退くも時機次第であり、自身の力量と環境を測りながら無理のない道を選ぶ知恵が説かれます。平たく言えば、重要な岐路に立っているため、一気に動かず小さなテストを重ねてタイミングを計るのが賢明です。
新たな職責への移行や事業の方向転換など、ステップアップの機会とリスクが同時に存在する時期です。伝統的な戦略論では、いきなり全面的な勝負に出るのではなく、小規模な実証や周囲の反応の確認から始めることが推奨されます。端的に言えば、進退の選択肢を確保したまま、市場や組織の手応えを慎重に確かめるのが得策です。
互いの将来的な関係性や責任について、じっくりと考えを深めるべき節目を迎えています。古くからの知恵では、性急な約束を取り付けるよりも、日々のささいな課題を協力して乗り越えられるかを確かめることが大切とされます。要するに、結論を急がず自然な対話を積み重ねることで、真の相性を確かめることができます。
新たな計画や資金の動きに対して、柔軟性と流動性を維持した慎重な対応が功を奏する時期です。伝統的な財政規律では、すべての余力を投入するのではなく、手元資金に十分な余裕を残して段階的に動くことが肝要とされます。一言で言えば、もしもの備えを確保した上で、少しずつ状況を確かめながら進めるのが安全です。
或いは躍りて淵に在りとは、進むも咎なきなり。
周易本義爻辞
「躍」は羊灼の反。「或」は疑ってまだ定まらない辞である。「躍」とは拠り所なく大地を絶って跳び上がることであるが、まだ飛翔していない。淵とは上は虚空で下は深く洞穴のように測り知れない場所である。龍がここに在るのは田の下にいるかのようであり、あるいは躍り上がれば天へと向かう。九は陽、四は陰であり、上卦の下に居て改革の際、進退未定の時である。ゆえにその象はこのようになり、その占いは時に随って進退するならば咎なきこととなる。
周易本義小象伝
進むことはできるが必ずしも進むとは限らない。
伊川易伝爻辞
淵は龍の安んずる所である。「或」は疑辞であり、必ずしもそうとは限らないことをいう。躍るも躍らざるも、ただ時に及んで安んずるに就くのみである。聖人の動きは時ならざるはない。舜の歴試の時である。
伊川易伝小象伝
可否を量って進み、その時に適えば咎なきを得る。
伊川易伝文言伝
或いは躍り或いは処り、上下定まりなく、或いは進み或いは退き、去就は宜しきに従い、邪枉をなすにあらず、群類を離るるにあらず。徳を進め業を修め、時に及ばんと欲するのみである。時に行い時に止まり、恒久ではあり得ない。ゆえに「或」という。深淵は龍の安んずる所である。「淵に在り」とは躍りて安んずる所に就くことをいう。淵は深い所にあるのに「躍る」というのは、ただ進んで安んずる所に就く義を取るだけである。「或」は疑辞であり、時に随って必すべからざることをいう。君子の時に順ずることは、影が形に随うがごとくであり、離れることができるのは道ではない。
周易注爻辞
下体の極みを去り上体の下に居り、乾道の革まる時である。上は天に在らず、下は田に在らず、中は人に在らず。重剛の険難を履んで処すべき定位がなく、まことにこれ進退無常の時である。尊位に近づきその道を進めんと欲するが、下に迫られて跳躍の及ぶところではない。その居所に静まり安んぜんと欲するが、居る所は安んずる所にあらず、疑いを抱いて躊躇し未だ決断できない。心を用うるに公を存し進むに私情はなく、疑いをもって思慮とし果敢なる行いに誤り謬らない。ゆえに「咎なし」である。
周易正義爻辞
「九四:或いは躍りて淵に在り、咎なし」。正義に曰く、「或」は疑いである。「躍」は跳躍である。九四の陽気が漸進し龍の体がまさに飛ぼうとするかのようであるが、まだ疑い惑うことをいう。淵に在って跳躍するがすぐには飛び立たない。この自然の象は、聖人の位が次第に尊高となり王位に進まんと欲しながら、猶予し躊躇して旧位に留まりすぐには進まないかのようである。「咎なし」とは、進退に躊躇して果敢に尊位を取ろうとしないがゆえに「咎なし」というのである。もし利を貪り進むことを務め、時がいまだ行うべからざるのに行うならば衆の与みせぬ所となり、ゆえに咎がある。周の西伯が内に王たる心を執しながら、外には諸侯を率いて紂王に仕えたようなものである。
注の「下体の極みを去る」から「咎なしなり」まで。正義に曰く、「下体の極みを去る」とは、下体を離れて上体に入るが下体の上にあるゆえに「去下体の極み」という。九三の注に「下体の極みに処す」とあるのは、九三に留まっているためこれと異なる。「乾道革まるの時」とは、革は変である。九四が下体を去って上体に入るのは乾道が変革する時である。「上は天に在らず、下は田に在らず、中は人に在らず」とは、易の卦体として三と四は人道であり、人は下に近く上に近くないため、九四に「中は人に在らず」というのは九三と異なる。「処すべき定位なし」とは、九四は陽をもって陰の上に居り、天にも在らず地にも在らず中も人に当たらないゆえに、上下ともに処すべき定位がない。「進退無常の時」とは、『文言』の「上下無常」「進退無恒」がこれである。「その道を進めんと欲すれども、下に迫られて躍の及ぶ所にあらず」とは、己の聖道を進めて王位に居らんと欲するが、下に逼迫されて群衆がまだ許さず、己が単独で躍り上がって及ぶところではないことをいう。「その居を静かにせんと欲すれども、居る所安んずる所にあらず、疑いを持して躊躇し、未だ志を決するに敢てせず」とは、志はその居所に静かに安んぜんと欲するが、百姓はいまだ禍患を離れておらずまさに救済しなければならないため安居を得ず、ゆえに躊躇逡巡してあえて志を決断して進取しないのである。「心を用うるに公を存し、進むに私にあらず」とは、もともと乱を救い患いを除くためであって己のためではないゆえに「進むに私にあらず」という。「疑いを以て慮と為し、果に謬らず」とは、謬は過ちであり果は果敢である。もし思慮せずみだりに進取を求めるならば果敢な事柄に過ちを生じて敗亡を招く。もし疑惑をもって思慮とするならば果敢な事柄に過ちを生じない。その過ちを犯した者とは、宋の襄公が楚人と戦って敗亡を招いたようなものである。
周易正義文言伝
「九四に曰く」から「故に咎なし」まで。正義に曰く、これは九四の爻辞を明らかにしたものである。「子曰く上下無常なるは邪を為すにあらざるなり」とは、上に躍らんと欲し下に退かんと欲するのは無常である。意が公にあるのであって邪をなすのではない。「進退無恒なるは群を離るるにあらざるなり」とは、何氏に曰く「進退無恒なる所以は時がそうさせるのであって、みだりに群を離れようとするのではない」と。何氏はまた「上下を言うのは位に拠り、進退を言うのは爻に拠る」という。いわゆる「群を離るるにあらず」とは、進退に恒常がないといえどもなお群衆に依って行い、光を和らげ屈伸し群衆と同じくするのであって、卓絶して独り群を離れるのではないことをいう。「君子は徳を進め業を修め、時に及ばんと欲す」とは、「徳を進む」とは上へ進まんと欲することであり、「業を修む」とは下へ退かんと欲することである。進む者は位を捨てて躍らんと欲し、これが「徳を進む」の謂いである。退く者は淵に留まり退き、これが「業を修む」の謂いである。その意は九三と同じであるが、九四は前進を欲することが九三よりも多いため「時に及ばんと欲す」というのである。九三は「及時」とは言わず、ただ「与に幾を言うべし」というだけである。
一撮金爻辞
九四・四爻・中中:行かんと欲して止まず、徘徊して已まず。玉を蔵し珠を懐き、片帆千里をゆく。