周易本義爻辞
亢は苦浪の反。
上とは最上の一爻の名である。亢とは上に過ぎて下ることができない意である。陽が極点に達して動けば必ず悔いがある。ゆえにその象と占いはこのようになっているのである。
第6爻
上九:亢竜、悔いあり。
「乾」の上九は「亢龍有悔(こうりょうくいあり)」とされ、頂点を極めた存在が高所ゆえの孤立と後悔に直面する様を描きます。伝統的な解釈では、物事が極まれば必ず反転することを説き、過度の自己主張を戒めて謙虚な身の処し方を促します。
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易経・四柱推命のリーディング依頼(eastalmanac.com より)。 Page: Hexagram 1 乾 — 第6爻. 二層構造で解釈してください。1)理法の根拠:卦爻の変爻や干支五行の力点と注意すべき盲点。2)実践的アドバイス:問いに対する率直な結論、動詞から始まる2〜3の具体的な行動指針と内省の要点。決定論を排し、自省と意思決定の参考にしてください。出典・詳解: https://eastalmanac.com/ja/yijing/1/6
純陽の極みに位置する上九が動くと「沢天夬」へと変じ、過剰な剛強さが破綻の火種を孕むことを示唆しています。小象伝が「盈(み)つるは久しかるべからず」と説くように、古典的知恵では絶頂の勢いを永続的に保ち続けることは叶わないと戒められてきました。現在の状況はすでに発展サイクルの限界に達しており、前進を急ぐよりも成果を保全し静かに身を引く姿勢が肝要です。
これまでの実績や職務上の権限が上限に達しており、さらなる強権的な拡大や自己主張は周囲との軋轢や反発を招く懸念があります。伝統的な処世の知恵では、第一線での過度な自己主張を控え、後進への権限委譲や相談役に退くことが身を守るとされています。独力で成果を独占しようとせず、一歩引いて周囲に花を持たせることが安定を保つ秘訣です。
親密な関係において主導権を握ろうとしたり、一方的な正論を押し通そうとしたりすると、修復が難しい溝を生むリスクがあります。古典的な対話の教えは、過度なプライドを捨てて相手の領域や感情を尊重することこそが絆を保つと伝えています。意地を張るのをやめて自ら歩み寄る柔軟さを持つことが、互いの平穏を取り戻す最善の道です。
資産の管理や支出においては、ピーク時の勢いに任せた投機的な拡大を避け、リスク管理と現状維持を最優先すべき局面です。伝統的な金銭観では、過剰な利得を追究する姿勢が突然の反転や資金の停滞を引き寄せやすいと警告されています。欲をかいて無理に増やすことを狙うのではなく、すでに手にした元本や成果を堅実に守り抜くことが大切です。
亢竜悔いありとは、盈つれば久しかるべからざるなり。
周易本義爻辞
亢は苦浪の反。
上とは最上の一爻の名である。亢とは上に過ぎて下ることができない意である。陽が極点に達して動けば必ず悔いがある。ゆえにその象と占いはこのようになっているのである。
伊川易伝爻辞
九五は位の極であり、中正なる者は時を得ることの極である。これを過ぎれば亢となる。上九は亢の極に至るがゆえに悔いがある。過ちがあれば悔いが生じる。ただ聖人のみが進退存亡を知りて過ちなく、悔いに至らないのである。
伊川易伝小象伝
満つれば変じ、悔いがあるのである。
伊川易伝文言伝
九は上に居れども尊位に当たらず、ここをもって民なく輔けもなく、動けば悔いがあるのである。「潜龍用うるなかれとは、下なればなり」とは、 これ以下は乾の時を言う。用うるなかれとは、下にあって未だ用うべからざるゆえである。「見龍田にありとは、時に舎るなり」とは、 時に随いて止まることである。「終日乾乾とは、事を行うなり」とは、 徳に進み業を修むることである。「或いは躍りて淵にありとは、自ら試みるなり」とは、 時に随いて自ら用いることである。「飛龍天にありとは、上の治なり」とは、 位を得て上の治めを行うことである。
「亢龍悔いありとは、窮まるの災なり」とは、 窮極して災いが至ることである。「乾元用九とは、天下治まるなり」とは、 用九の道は、天と聖人が同じくその用を得れば天下が治まるということである。「潜龍用うるなかれとは、陽気潜蔵す」とは、 これ以下は乾の義を言う。まさに陽の微にして潜蔵するの時にあたり、君子もまた隠れ潜むべきであって、未だ用うべからざるのである。「見龍田にありとは、天下文明なり」とは、 龍徳が地上に現れれば、天下はその文明の化を見るのである。「終日乾乾とは、時と偕に行う」とは、 時に随いて進むことである。
「或いは躍りて淵にありとは、乾道すなわち革まる」とは、 下位を離れて上位へと昇り、上下が革まることである。「飛龍天にありとは、すなわち天徳に位す」とは、 上位に正位し、天徳に当たることである。「亢龍悔いありとは、時と偕に極まる」とは、 時がすでに極まれば、時に処する者もまた極まるのである。「乾元用九とは、すなわち天則を見る」とは、 用九の道は天の則である。天の法則を天道という。ある人が「乾の六爻はみな聖人の事であるか」と問うたのに対し、答えて言う。「その道を尽くす者は聖人である。得失によって吉凶が存する。どうして乾だけであろうか。諸卦みな然りである」。
「乾元とは、始めて亨る者なり」とは、 また反復して詳しく説きその義を尽くす。すでに始まれば必ず亨る。亨らざれば息むのである。「利貞とは、性情なり」とは、 乾の性情である。すでに始まって亨るも、利貞にあらざれば、それ能く息まざらんや。「乾の始は能く美利をもって天下を利す。利するところを言わず、大なるかな」とは、 乾始の道は能く庶類を生成し、天下はその美利を蒙る。利するところを言わざる者は、利ならざるところなく、名指しすべきものではないからである。ゆえにその利の大なるを讃えて「大なるかな」と言うのである。
「大なるかな乾や、剛健中正にして純粋の精なり」とは、 六爻発揮して情に旁通するのである。「時に六龍に乗じて以て天を御す。雲行われ雨施されて天下平らかなり」とは、 大なるかなとは、乾道の大なるを讃えることである。剛健・中正・純粋の六者をもって乾道を形容し、精とは六者の極みをいう。六爻発揮して旁通しその情義を尽くす。六爻の時に乗じて天運に当たれば、天の功用が著われる。ゆえに雲が行われ雨が施され、陰陽があまねく暢びて天下和平となる道が見られるのである。
「君子は徳を成すをもって行いとなし、日々に示すべきの行いなり。潜の言たるや、隠れて未だ見れず、行いて未だ成らず。ここをもって君子は用いざるなり」とは、 徳が成りてその事の見るべきものが「行」である。徳が成ってのちに用に施すことができる。初はまさに潜隠してその行いが未だ見れず、未だ成らず。未だ成らずとは未だ著われざるである。ここをもって君子は用いざるなり。
「君子は学びて以てこれを聚め、問いて以てこれを弁じ、寛以てこれに居り、仁以てこれを行う。易に曰く『見龍田にあり、大人を見るに利ろし』とは、君徳なり」とは、 聖人が下にあって、すでに顕れながらも未だ位を得ていなければ、徳に進み業を修めるのみである。学びて聚め問いて弁ずるは進徳であり、寛に居り仁に行うは修業である。君徳がすでに著われ、大人を見るに利ろしとして、進んでこれを行うのみである。進んでその位に居る者は舜や禹であり、進んでその道を行う者は伊尹や傅説である。
「九三、重剛にして中ならず、上は天にあらず、下は田にあらず。ゆえに乾乾としてその時に因りて惕る。危うしといえども咎なし」とは、 重剛とは剛の盛んなることである。中を過ぎて下の上に居り、上は未だ天に至らず、下はすでに田を離れている危懼の地である。時に因り順処し、乾乾として兢惕して危うきを防ぐ。ゆえに危うしといえども咎に至らない。君子が時に順じて兢惕するは、泰平よく能う所以である。
「九四、重剛にして中ならず、上は天にあらず、下は田にあらず、中は人にあらず。ゆえにこれを或いにす。これを或いにすとはこれを疑うなり。ゆえに咎なし」とは、 四は天にあらず田にあらずして人の上に出でている。危地である。疑うとは未決の辞であり、処するに必すべからざるなり。或いは進み或いは退き、ただ安んずるところに従うのみ。ゆえに咎なき所以である。
「それ大人は天地とその徳を合一し、日月とその明を合一し、四時とその序を合一し、鬼神とその吉凶を合一す。天に先だちて天違わず、天に後れて天の時を奉ず。天すらなお違わず、しかるをいわんや人においてをや、いわんや鬼神においてをや」とは、 大人が天地・日月・四時・鬼神と合するは、道に合するからである。天地とは道である。鬼神とは造化の跡である。聖人が天に先だっても天が同じくし、天に後れても天に順ずることができるのは、道に合しているからにほかならない。道に合していれば、人と鬼神がどうして違うことができようか。
「亢の言たるや、進むを知りて退くを知らず、存するを知りて亡ぶるを知らず、得るを知りて喪うを知らざるなり」とは、 「それただ聖人のみか。進退存亡を知りてその正を失わざる者は、それただ聖人のみか」である。極まることの甚だしきを亢となす。亢に至る者は進退存亡得喪の理を知らないからである。聖人はこれを知りてこれに処し、みなその正を失わない。ゆえに亢に至らないのである。
周易注文言伝
下には陰がない。賢人は下に在りて当位であるといえども、これに助力をしないのである。
上卦の極に処して当位ならず、ゆえにことごとくその欠けたるを陳べるのである。独立して動けども、物としてこれに与するものはない。『乾・文言』の首において「乾」を論ぜずして先に「元」を説き、下にすなわち「乾」と言うのは何ゆえか。それ「乾」とは四事を統行する者である。君子は自彊不息をもってこの四者を行うがゆえに、首において「乾」を論ぜずして、下に「乾、元、亨、利、貞」と言うのである。他の爻はみな龍を説くのに、九三に至って独り「君子」を目とするのは何ゆえか。それ易とは象である。象の生ずるところは義より生ずる。この義があって然るのちにこれをその物をもって明らかにする。ゆえに龍をもって「乾」を叙し、馬をもって「坤」を明らかにし、その事義に随いて象を取るのである。このゆえに初九・九二は、龍徳がみなその義に応ずるがゆえに、龍を論じてこれを明らかにすることができる。九三の「乾乾夕惕」に至っては、龍徳にあらず、君子をもってその象に当てることを明らかにする。統べてこれを挙げれば乾の体はみな龍であり、別ちてこれを叙すれば各々その義に随う。
この一章はことごとく人事をもってこれを明かすのである。九は陽である。陽は剛直の物である。それよく剛直を全うして用い、善柔なる者を遠ざけ放つことは、天下の至理にあらざれば、能くすること未だあらざるなり。ゆえに「乾元用九」なれば「天下治まる」のである。それ物の動を識れば、その然る所以の理はみな知るべし。龍の徳たるや妄をなさざる者である。潜みて用うるなかれとは何ゆえか。必ずや下において窮処しているからである。見れて田にありとは、必ずや時の通舎によるのである。爻をもって人となし、位をもって時となせば、人が妄動しなければ時はみな知ることができる。文王が明夷にあればすなわち主を知るべし。仲尼が旅人となればすなわち国を知るべし。
天時と倶に息まず。時運と倶に終極す。この一章はことごとく天気を説いてこれを明らかにするのである。九は剛直の物であり、ただ「乾」の体のみがこれを用いることができる。純剛を用いて天を観れば、天の則を見ることができる。「乾元」とならざれば、いかでか物の始を通ずることを能くせん。その情を性たらしめざれば、いかでか久しくその正を行うことを能くせん。このゆえに「始めて亨る者」は必ず「乾元」である。利にして正しき者は必ず「性情」である。君徳をもって下体に処し、物に資を納れる者である。
周易正義爻辞
正義に曰く、上九は亢陽の至りであり、大にして極盛である。ゆえに「亢龍」と言う。これは自然の象であり、人事をもってこれを言えば、聖人が龍徳を有し、上に天位に居り、久しくして亢極し、物極まれば反るがごとし。ゆえに「悔いあり」とする。純陽は極まるといえども、未だ大凶には至らず、ただ悔吝があるのみである。『繋辞伝』に「悔吝とはその小疵を言うなり」とある。ゆえに鄭玄は堯の末年に四凶が朝にあったことを引き、これをもって悔いありとするも未だ大凶ではないとした。およそ悔の文たるや、すでにこれ小疵であり、単に悔とは称さない。必ず余字をもってこれに配する。その悔いがもし在れば「悔いあり」と言い、まさにこの悔いがあるべきことを言う。すなわちこの経がこれである。その悔いがもし無ければ「悔亡ぶ」と言い、その悔いがすでに亡びたことを言う。例えば『雷風恒』九二の「悔亡ぶ」のごときがこれである。その悔いが亡ぶといえども、あるいはさらに他の文を取ってこれを結ぶ。例えば『復』初九の「遠からずして復る、祗悔なし」の類がこれである。ただ聖人の至極は終始虧くることなし。ゆえに『文言』に「進退存亡を知りてその正を失わざる者は、それただ聖人のみか」と言う。これによって大聖の人は本よりこの悔いなきを知る。ただし九五の天位には、大聖にして居る者もあれば、また大聖ならずして居る者もあり、驕亢無き能わず。ゆえに聖人は法を設けて以てこれを戒めたのである。
周易正義小象伝
「或いは躍りて淵にあり」から「盈は久しかるべからざるなり」までについて。
正義に曰く、「或いは躍りて淵にあり、進むも咎なし」とは、これもまた人事をもってこれを言う。進めば跳躍して上にあり、退けば潜処して淵にある。なお聖人が疑或しつつも貴位にあるがごとし。心の進まんと欲するところは、意が公に在りて私のためではない。ゆえに「進むも咎なし」である。「飛龍天にあり、大人造る」とは、これもまた人事をもってこれを言う。「飛龍天にあり」とは、聖人の王位にあるがごとし。造とは為すことである。ただ大人のみがこれを為して成就できるのである。姚信や陸績の属は、みな「造」をもって造至の「造」となす。今案ずるに、『象伝』の辞はみな上下で韻を踏んでおり、姚信の義はその読みが誤りである。「亢龍悔いあり、盈は久しかるべからざるなり」とは、これもまた人事をもってこれを言う。九五は盈(満ちること)であり、盈ちて已まざればすなわち上九に至り、地は亢極を致して悔恨があるのである。ゆえに「盈は久しかるべからざるなり」と言う。ただしこの六爻の『象伝』の辞は、第一爻に「陽下にあり」と言い、これは自然の象を挙げて、その余の五爻にもみな自然の象があることを明らかにし、初を挙げて末を現すのである。五爻がともに人事を論ずれば、初爻にもまた人事があることを知る。互文相通ずるのである。
周易正義文言伝
正義に曰く、これは上九の爻辞を明らかにしている。「子曰く、貴くして位なく」とは、上九は位にあらざるに上九がこれに居るをもって、これ位なきことである。「高くして民なし」とは、六爻みな陰なきをもって、これ民なきことである。正義に曰く、賢人が下位にあるといえども、これのために輔助をしないのである。「ここをもって動きて悔いあるなり」について。
正義に曰く、聖人は戒めを設け、この時に居りては動作すべからざることを示した。
注の「夫れ乾なる者は四事を統行する者なり」について。
正義に曰く、「夫れ乾なる者は四事を統行する者なり、君子は自彊不息をもってこの四者を行う」とは、注の意は「乾」をもって四徳の主となし、『文言』の首において先に乾を説かずして先に四徳を説くゆえんを自ら発問してこれを釈したものである。乾の体は分において功なく、ただこの四徳の事を統行するのみである。この四徳を行うことこそ乾の功である。ゆえに『文言』はまず「君子は自彊不息をもってこの四者を行う」と説き、ゆえに先にこれを言い、発首に「乾」を論じないのである。ただ四徳がすでに備われば乾の功はおのずから成る。ゆえに下において始めて「乾元亨利貞」と言うのである。
「潜龍用うるなかれ」から「天下治まるなり」までについて。
正義に曰く、この一節は『文言』の第三節であり、六爻の人事の治めるところの義を説く。「潜龍用うるなかれとは、下なればなり」とは、聖人がこの潜龍の時において卑下にあることを言う。「見龍田にありとは、時に舎るなり」とは、舎とは通舎をいう。九二は見龍田にありをもって、これ時の通舎である。「終日乾乾とは、事を行うなり」とは、この知至・知終の事を行うことを言う。「或いは躍りて淵にありとは、自ら試みるなり」とは、聖人が五の位に逼近し、あえて果決していまだ進まず、ただ漸々に自ら試み、意は前進せんと欲すれども遅疑して定まらないゆえに「自ら試みる」と言う。「飛龍天にありとは、上の治なり」とは、聖人が上位に居りて治理することを言う。「亢龍悔いありとは、窮まるの災なり」とは、位が窮まりて災いを致すことを言う。災いとは悔いであり、大いなる禍災をいうのではない。「乾元用九とは、天下治まるなり」とは、『易経』の上で「用九」と称し、「用九」の文はすべて乾徳である。また「乾」の字は独り言うべからず、ゆえに「元」の徳を挙げて「乾」に配したのである。この乾元が九徳を用いれば天下が治まることを言う。九五はただ一爻にとどまり、事を見るに狭く、ただ「上の治」と言う。乾元は六爻を包容し、事を見るに広く、ゆえに「天下治まる」と言うのである。
注の「此の一章は全く人事をもって」から「国知るべきなり」までについて。
正義に曰く、「この一章はことごとく人事をもってこれを明かす」とは、下に「陽気潜蔵す」と言い、また「すなわち天徳に位す」と言い、また「すなわち天則を見る」と言う。この一章はただ「天下治まる」とだけ言い、これらはみな人事をもってこれを説いているのである。「それ能く剛直を全うして用い、善柔を遠ざけ放つは、天下の至理にあらざれば、能くすること未だあらざるなり」とは、「乾元用九」において六爻みな陽なるをもってこれ「剛直を全うして用いる」である。「善柔を放遠す」とは、善柔の人を放棄することをいう。善く柔諂をなし、貌は恭しく心は狠にして、人にその悪を知らしめず、これを識るは難しとなす。この用九の純陽なる者は、これ剛直を全うして用いてさらに余陰なきことである。柔善の人は堯すらなおこれに苦しんだ。ゆえに「天下の至理にあらざれば、能くすること未だあらざるなり」と言う。「それ物の動を識れば、その然る所以の理はみな知るべし」とは、下に在る龍の潜・見の義を明らかにせんと欲するものである。ゆえに張氏が言うには、「物の動を識るとは龍の動をいう。その然る所以の理はみな知るべしとは、龍の潜む所以、見れる所以を識れば、しからばこの理はみな知るべしということである」。「龍の徳たるや妄をなさざる者」とは、龍は他の獣よりも霊異であり、みだりに挙動せず、潜むべければ潜み、見るべければ見れ、これ虚妄ならざるを言う。「見れて田にありとは、必ず時の通舎による」とは、経にはただ「時舎」とあるのみである。注に「必ず時の通舎による」と言うのは、輔嗣(王弼)が通をもって舎を解したからであり、「舎」は通の義である。初九は潜蔵して見れず、九二はすでに見れて田にあり、これ時の通舎の義である。「爻をもって人となし、位をもって時となす」とは、爻がその位に居るは、なお人のその時に遭うがごとし。ゆえに「文王が明夷にあればすなわち主を知るべし」と言う。主とは時である。当時の無道を言うゆえに明が傷つけられたのである。「仲尼が旅人となればすなわち国を知るべし」とは、国もまた時である。もし仲尼が他人に羈旅するを見れば、国君の無道にしてその羈旅して外に出づるを知る。文王と仲尼を引くのは、龍の潜・見の義を明らかにするためである。
「潜龍用うるなかれ」から「時と偕に行う」までについて。
正義に曰く、この一節は『文言』の第四節であり、六爻の天気の義を明らかにする。「天下文明」とは、陽気が田にあり、始めて万物を生ず。ゆえに天下に文章ありて光明なることである。「時と偕に行う」とは、天道をもって爻象を釈したものである。九三が乾乾として息まず終日自戒する所以は、天時に同じくして物を生ずること息まざるゆえに「時と偕に行う」と言うのである。偕とは倶にである。諸儒は建辰の月(辰の月)に万物が生長して止息することなく天時と倶に行うこととする。もし息まざるをもって言えば、建寅の月(寅の月)に三陽が用事し、三はまさに生物の初に当たり、生物息まざるなり。天時の生物息まざるに同じきがゆえに「時と偕に行う」と言うのである。
「或いは躍りて淵にあり」から「時と偕に極まる」までについて。
正義に曰く、「乾道すなわち革まる」とは、下体を去りて上体に入るゆえに「すなわち革まる」と言う。「すなわち天徳に位す」とは、位が天徳の位に当たることをいう。九五の陽が天に居り、照臨すること広大であるゆえに「天徳」と言うのである。正義に曰く、「すなわち天則を見る」とは、陽は剛亢の物であり、この純剛を用いることができるのは、ただ天のみがそうである。ゆえに「すなわち天則を見る」と言う。「乾元とは」から「性情なり」までについて。
正義に曰く、この一節は第五節であり、ふたたび上の初章および乾の四徳の義を明らかにする。「乾元とは、始めて亨る者なり」とは、乾は自らの当分において徳あるにあらず、元・亨・利・貞をもって徳となす。「元」は四徳の首であるゆえに、夫子は常に「元」を「乾」に配してこれを言い、乾と元が相伴う義を見せんと欲したのである。乾の元徳があるをもって、よく物の始となりて亨通するのである。これは元・亨の二徳を解するものである。「利貞とは、性情なり」とは、よく物に利益を与えて正を得る所以のものは、性が情を制することによるのである。
注の「乾元とならざれば」から「必ず性情なり」までについて。
正義に曰く、乾の元気はその徳が広大であり、ゆえによくあまねく諸物の始に通ずることができる。もし余卦の元徳であれば、よく万物を始生すといえども徳は周普ならず。ゆえに「乾元とならざれば、いかでか物の始を通ずることを能くせん」と言う。実は「坤元」もまたよく諸物の始に通ずることができるが、この『文言』は乾元の徳を論ずるがゆえに、注は連ねて「乾元」と言ったのである。「その情を性たらしめざれば、いかでか久しくその正を行うことを能くせん」とは、性とは天生の質であり、正にして邪ならず。情とは性の欲である。もし性をもって情を制し、その情をして性のごとくならしめることができなければ、久しくその正を行うことはできないということである。その六爻発揮の義は、『略例』を案ずるに「爻とは変を言う者なり」とある。ゆえに合散屈伸は体と相乖き、形は躁にして静を好み、質は柔にして剛を愛し、体と情は反し、質と原は違う。これ爻とは情を明らかにするゆえんのものであり、ゆえに六爻発散して万物の情に旁通するのである。輔嗣(王弼)の意は、初をもって無用の地となし、上をもって尽末の境となす。その位に居る者はただ二・三・四・五のみであり、ゆえに『繋辞伝』はただこの四爻のみを論ずる。初と上には正位がないといえども、統べてこれを論ずれば爻もまた始末の位である。ゆえに『乾・彖』に「六位時に成る」と言う。二・四は陰位であり、陰が居れば得位となり、陽が居れば失位となる。三・五は陽位であり、陽が居れば得位となり、陰が居れば失位となる。『略例』に「陽の求むるところは陰なり、陰の求むるところは陽なり」と言う。一と四、二と五、三と上において、一陰一陽ならば応ありとなし、倶に陰あるいは倶に陽ならば応なしとなす。これがその六爻の大略であり、その義は『繋辞伝』に具わっているが、ここでは略してこれを言ったのである。
「乾の始は能く美利をもって」から「天下平らかなり」までについて。
正義に曰く、「乾の始は能く美利をもって天下を利す。利するところを言わず、大なるかな」とは、これはふたたび「始めて亨る」「利貞」の義を説く。「乾始」とは、乾がよく万物を始生することをいい、「元」を解する。「能く美利をもって天下を利す」とは、「利」を解する。よく生長美善の道をもって天下を利益することをいう。ふたたび亨・貞を説かないのは、前文の「亨」はすでに始に連なり、「貞」はまた利に連なっており、始を挙げ利を挙げれば通じて亨・貞を包むからである。「利するところを言わず、大なるかな」とは、『坤為地』卦に「牝馬の貞に利ろし」と言い、また「侯を建てるに利ろし」「大川を渉るに利ろし」と言うがごときは、みな利するところの事を言っている。ここではただ「利貞」とだけ言い、利するところの事を言わないのは、利ならざるなきを見せんと欲するからである。ただ一事にとどまるのみにあらず、ゆえに「利するところを言わず、大なるかな」と言う。実にこの利は利ならざる所なく、この貞もまた貞ならざる所なし、これ乾徳の大なることである。「大なるかな乾や、剛健中正、純粋の精なり」とは、これは正しく乾徳を論じ、「元」を兼通しない。ゆえにただ「大なるかな乾や、剛健中正」と言う。純陽剛健をいい、その性は剛強、その行いは勁健である。「中」とは二と五をいい、「正」とは五と二をいい、ゆえに「剛健中正」と言う。六爻ともに陽であるは純粋である。純粋にして雑ならざるは精霊であり、ゆえに「純粋の精なり」と言う。「六爻発揮して、情に旁通す」とは、発とは発越であり、揮とは揮散である。六爻が発越揮散して万物の情に旁通することを言う。「時に六龍に乗じて、以て天を御す」とは、重ねて『乾・彖』の文を取り、もってこの乾の義を賛美したのである。「雲行われ雨施されて、天下平らかなり」とは、天下があまねくその利を得て均平となり、偏頗なきことを言う。
「君子は徳を成すをもって行いとなす」から「君子は用いざるなり」までについて。
正義に曰く、この一節は『文言』の第六節であり、重ねて六爻の義を明らかにする。この節は初九の爻辞を明らかにしている。周氏が言うには、「上の第六節『乾元とは始めて亨る者なり』は、広く乾と四徳の義を明らかにしたものであり、この『君子は徳を成すをもって行いとなす』もまた第六節であって、六爻の義を明らかにし、総じて第六節に属し、あらためて第七節とはしない」。その義もあるいは然るべし。「君子は徳を成すをもって行いとなす」とは、初九の「潜龍」の義を明らかにするゆえに、まずこの語を開いたのである。君子の人たるや、まさに道徳を成就するをもって行いとなし、その徳行を彰顕ならしめ、人に日々にその徳行の事を見せしむべきであり、これ君子の常であって、潜隠すべからざるはずである。今日潜む所以のものは、時が未だ見るべからざるをもって、ゆえに潜むべしとする。「潜の言たるや、隠れて未だ見れず、行いて未だ成らず」とは、夫子が「潜龍」の義を解したものである。この経中の「潜龍」の言は、徳が幽隠にして未だ宣見せず、行うところの行いが未だ成就すべからざるを言う。「ここをもって君子は用いざるなり」とは、徳がすでに幽隠であり、行いもまた未だ成らざれば、君子は時において用いられず、衆陰に逢いて未だ用うべからざるをもってである。周氏が言うには、「徳は己より出でて身の内の物なるゆえに『成』と言い、行は人に被りて外の事なるゆえに『行となす』と言う」。下においてまたすぐに「行いて未だ成らず」と言っており、行もまた成と称している。周氏の説は恐らく義として非であろう。「徳を成すをもって行いとなす」とは、君子が道徳を成就してその行いとなすことを言う。「徳を成すをもって行いとなす」は、必ずしも文が相対するわけではない。
正義に曰く、これは重ねて九二の徳を明らかにしている。「君子は学びて以てこれを聚む」とは、九二は微より進んで未だ君位にあらず、ゆえにまずは習学してその徳を蓄えるのである。「問いて以てこれを弁ず」とは、学びに未だ了らざるものがあれば、さらに詳しくその事を問い、もって疑いを弁決するのである。
正義に曰く、「寛以てこれに居る」とは、まさに寛裕の道を用い、その位に居処すべきである。「仁以てこれを行う」とは、仁恩の心をもってこれを行い物に被らしめることである。「『易』に曰く『見龍田にあり、大人を見るに利ろし』とは君徳なり」とは、すでにその徳を上に陳べ、しかるのちに『易』の本文章を引いてこれを結んだのである。『易』の言うところはこれ君徳であり、「寛以てこれに居り、仁以てこれを行う」がこれである。ただ君徳があるのみで、未だ君位ではない。「九三」から「咎なし」までについて。
正義に曰く、これは九三の爻辞を明らかにしている。上の初九・九二はみなあらかじめその徳を上に陳べ、発首に初九・九二とは言わなかったが、この九三・九四は発首にまず九三・九四と言う。その九五はまったく『易』の文を引かず、上九は発首に「亢の言たるや」と言う。上下で例を同じくしないのは、夫子の意は経を解釈することにあり、義の便ずるところに従って言ったのである。潜・見はその始を言うを要するがゆえに、あらかじめ張本を上にしたのである。三と四はともに「重剛不中」と言い、その義が同じきを恐れるがゆえに、ともにまず爻位が重剛不中なる事を言ったのである。九五は前章ですでに備わっているゆえに、重ねて『易』を引かず、ただ「大人」と言う。上九もまた前章で備わり顕れているゆえに、ここではただ「亢の言たるや」と言うのである。案ずるに、初九に「潜の言たるや」と言い、上爻に「亢の言たるや」と言い、独りこの二爻のみ「言」と言うのは、褚氏によれば初と上は無位の地に居るゆえに「言」と称し、その余の四爻は有位であるゆえに「言」と言わないのであり、義もあるいは然るべし。「重剛」とは、上下ともに陽であるゆえに「重剛」である。「不中」とは、二・五の位に在らざるゆえに「不中」である。「上は天にあらず」とは五位にあらざるをいい、「下は田にあらず」とは二位にあらざるをいう。「ゆえに乾乾としてその時に因りて惕る、危うしといえども咎なし」とは、危うき地に居り、「乾乾夕惕」をもって戒懼して息まざれば「咎なし」を得るのである。
「九四」から「ゆえに咎なし」までについて。
正義に曰く、これは九四の爻辞を明らかにしている。「重剛にして中ならず、上は天にあらず、下は田にあらず」は、ともに九三と同じである。「中は人にあらず」とは、三と四はともに人道である。ただし人道の中にあって、人は下は地に近く、上は天に遠い。九三は二に近く、これ下は地に近く、正しく人道である。ゆえに九三には「中は人にあらず」と言わない。九四は上は天に近く、下は地に遠く、人の処するところにあらず。ゆえに特に「中は人にあらず」と言うのである。「ゆえにこれを或いにす」とは、その上下が定まらざるをもって、ゆえに心にこれを或いに疑うのである。「これを或いにすとはこれを疑うなり」とは、夫子が経の「或」の字を解釈したものである。経に「或」と称するのは疑惑の辞であり、進まんと欲し退かんと欲して猶予して定まらず、ゆえにこれを疑うのである。九三は中は人に在りといえども、位が卑しく下に近いため、上に向かうことは難しく、ゆえに危惕してその憂いは深い。九四は陽徳が漸く盛んになり、五を去ること弥々近く、前進することやや易し。ゆえにただ疑惑するのみで憂いは浅いのである。
「それ大人は」から「いわんや鬼神においてをや」までについて。
正義に曰く、これは九五の爻辞を明らかにしている。ただし上節は大人が万物と相感ずることを明らかにし、ここでは大人の徳が合わざるなきを論じ、広く合するところの事を言っている。「天地とその徳を合一す」とは、荘氏が言うには「覆載をいう」。「日月とその明を合一す」とは、照臨をいう。「四時とその序を合一す」とは、賞するに春夏をもってし、刑するに秋冬をもってするの類である。「鬼神とその吉凶を合一す」とは、善に福し淫に禍するがごときである。「天に先だちて天違わず」とは、天時の先に行事すれば、天はすなわち後において違わざるがごときであり、これは天が大人の徳に合するのである。「天に後れて天の時を奉ず」とは、天時の後に行事すれば、よく上天に奉順するがごときであり、これは大人が天に合するのである。「天すらなお違わず、しかるをいわんや人においてをや、いわんや鬼神においてをや」とは、夫子は天すらなお違わざるをもって大人の徳を明らかにし、尊くして遠き者すらなお違わないのだから、いわんや小さくして近き者が違うことがあろうか、いわんや人においてをや、いわんや鬼神においてをや、と言ったのである。
「亢の言たるや」から「それただ聖人のみか」までについて。
正義に曰く、これは上九の義を明らかにしている。「進むを知りて退くを知らず、存するを知りて亡ぶるを知らず、得るを知りて喪うを知らざるなり」とは、この上九が亢極して悔いある所以のものは、正しくこの三事があることによる。もし三事を具さに知ることができれば、上位に居るといえども「亢」には至らない。これは戒めの辞を設けたのである。荘氏が言うには、「進退は拠るに心をもち、存亡は拠るに身をもち、得喪は拠るに位をもつ」。「それただ聖人のみか、進退存亡を知りて」とは、ただ聖人のみ能く進退存亡を知ることを言う。なぜ得喪を言わないのかといえば、得喪は存亡より軽く、重きを挙げて軽きを略したのである。「その正を失わざる者は、それただ聖人のみか」とは、聖人はただ進退存亡を知るのみならず、またその正道を失わないことができる、それただ聖人のみか、ということである。この経にふたたび「それただ聖人のみか」と称するのは、上の「聖人」と称するは「進退存亡を知る」のために文を発し、下の「それただ聖人のみか」と称するは「その正を失わず」のために文を発したのである。聖人はただ「進退存亡を知る」のみならず、また「その正を失わず」とよく言うがゆえに、ふたたび「聖人」の文を発したのである。
一撮金爻辞
上九の六爻、下下:心は戚戚、口は啾啾。ひとたび思量すればひとたび憂い、やめようと口にしてはまたやめず。