East Almanac
日本語

1. 乾為天 (乾)

第2爻

この爻が動けば に変じる 13. 天火同人 (同人)
九二:見竜田にあり、大人を見るに利ろし。

現代解釈

乾為天の九二は「見龍田に在り、大人を見るに利ろし」とされ、内に秘めた資質が社会的な場に現れ始める好機を示します。良き指導者や理解者との出会いを通じて、着実に地歩を固めていく段階です。

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プロンプトプレビュー
易経・四柱推命のリーディング依頼(eastalmanac.com より)。
Page: Hexagram 1 乾 — 第2爻.
二層構造で解釈してください。1)理法の根拠:卦爻の変爻や干支五行の力点と注意すべき盲点。2)実践的アドバイス:問いに対する率直な結論、動詞から始まる2〜3の具体的な行動指針と内省の要点。決定論を排し、自省と意思決定の参考にしてください。出典・詳解:
https://eastalmanac.com/ja/yijing/1/2

易の占い

下卦の中位にあって中庸の徳を備え、変卦が「天火同人」となることから、広く他者と連携し協調する性格を持ちます。古典的な解釈では、大地に現れた龍のように公明正大な徳を行き渡らせ、優れた人物の助言を得ることが推奨されます。要するに、自らの実力が周囲に認知され始める時期であり、敬意を持てる先達に教えを乞うことで順調に前進できます。

仕事・キャリア

専門的なスキルや実績が周囲の目に留まり、職場や業界内での評価が高まりやすい時期を迎えています。伝統的な知恵によれば、実績ある先輩や指導者に進んで相談を持ちかけることが、キャリアの視野を広げる最善手とされます。平たく言えば、独力に固執せず信頼できる実力者を頼ることで、無駄な回り道を避けられます。

恋愛・対人

人間関係が明るく開かれた広がりを見せ、知人の紹介や公の交流から誠実な縁が育まれやすい気配があります。古典的な礼節の教えでは、誇張のない自然体の品格と温和な姿勢が相手からの深い信頼を生むと説かれます。端的に言えば、素直で礼儀正しい態度を心がけることで、互いを尊重し合える良好な関係が始まります。

金運

外部との公正な協力関係や業務の広がりを通じて、収支が安定的な軌道に乗りやすい流れです。古くからの教えでは、透明性の高いルールに則り、信用のおけるパートナーと共に進めることが持続的な実利につながるとされます。つまり、私利を追うのではなく誠実な仕事を通じて対価を得ることが、最も確実な基盤を築きます。

参考資料

原文

小象伝

見竜田にありとは、徳の施し普きなり。

古典注釈

周易本義爻辞

見龍の「見」は賢遍の反。卦内の見龍もみな同じ。二とは下から上へ数えて第二の爻をいう。後もこれに準ずる。九二は剛健中正であり、潜伏を脱して隠遁を離れ、恩沢が万物に及び、万物が仰ぎ見ることを利とするところである。ゆえにその象は「見龍田に在り」となり、その占いは「大人を見るに利ろし」となる。九二はまだ位を得ていないが、大人の徳はすでに顕れており、常人ではこれに当たるに足りない。ゆえにこの爻の変に遭った者は、ただこの人を見るに利ろしいというだけである。思うにこれもまた下に在る大人を指している。これは爻と占う者が互いに主客となる一つの通例である。もし見龍の徳を備えているならば、上に在る九五の大人を見るに利ろしいということになる。

伊川易伝爻辞

田は地上である。地表に出現してその徳はすでに顕れている。聖人について言えば、舜が雷沢で漁獲や陶器造りをしていた時である。大徳の君を見るに利ろしくしてその道を行い、君もまた大徳の臣を見るに利ろしくして共にその功を成し、天下は大徳の人を見るに利ろしくしてその恩沢を被る。大徳の君とは九五である。乾坤は純粋な卦体であり、剛柔を分かたず同徳をもって相応じている。

伊川易伝小象伝

地上に現れ、徳の教化が万物に及び、その施しはすでに普く行き渡っている。

周易注爻辞

潜伏を脱し隠遁を離れたがゆえに「見龍」といい、地上に処しているがゆえに「田に在り」という。徳の施しは普く行き届き、中央に居て偏らない。君位にはないといえども、君の徳である。初九は顕れず、九三は「乾乾」とし、九四は「或いは躍り」、上九は高きに過ぎて亢まる。「大人を見るに利ろし」とは、ただ二と五のみである。

周易正義爻辞

「九二」から「大人を見るに利ろし」まで。正義に曰く、陽が二の位に処するゆえに「九二」という。陽気が現れ出るゆえに「見龍」という。田とは地上の営みをなして利益をもたらす場所であり、陽気が地上に発現するゆえに「田に在り」という。また初と二はともに地道であり、二は初の上にあるため「田」と称する。「見龍田に在り」は自然の象である。「大人を見るに利ろし」とは人事をもってこれに擬し、龍が田に現れ出た時は、あたかも聖人が長く潜伏した後に少し現れ出で、君位にはないが君徳を備えているかのようであり、天下の民衆は九二の大人を見るを利とすることを言っている。先儒がいうには、夫子が洙泗の地で教えを施し天下を利益し人君の徳を備えていたゆえに「大人」と称したようなものである。案ずるに『文言』に「九二は徳博くして化す」といい、また「君徳なり」という。王輔嗣の注に「君位にあらざるも君の徳なり」という。これは九二が人君の徳を備えているゆえに「大人」と称するのである。輔嗣はまた「大人を見るに利ろしとは、ただ二と五のみ」という。これは二と五がともに「大人」であり天下の利見するところとなるからである。褚氏や張氏は鄭康成の説と同じく、いずれも九二が九五の大人を見るに利ろしいと解釈したが、その義は正しくない。大人という言は九五と九二に専らあるわけではなく、『訟卦』に「大人を見るに利ろし」といい、また『蹇卦』にも「大人を見るに利ろし」という。この大人の文が施される所は広く、ゆえに輔嗣の注は九二を指している。大人は九五に限るものではない。

注の「地上に処す」から「ただ二五のみ」まで。正義に曰く、「地上に処す、故に田に在りという」とは、先儒は重卦の時に上下の二体を重ねるゆえに初と四が応じ二と五が応じ三と上が応ずるとした。これは上下の二体が天地人を別々に論じたものであるが、易は万象を含み体例は一様ではない。その六位に至っては、一・二が地道、三・四が人道、五・上が天道となる。二は一の上にあるので、九二はその地上に処し、耕作して食する場所は地上のみであるため「田」と称する。輔嗣の注の意を観るに、ただ地上であることを取って田と称しているが、諸儒はさらに広げてこれを称し、田の耕作の利益が万物に及び満ちて人に有益であることはあたかも聖人が万物を益するかのようであるゆえに「田」と称するという。「徳の施し周普なり」とは下の小象の文であり、周密にして普遍的であることをいう。「中に居りて偏らず」とは、九二が下卦の中央に居て、上に対しても下に対してもその心が等しく偏らないことをいう。偏らなければ周普である。「君位にあらず」とは、二は大人であって自ら二の位に居り、これは君位ではない。「君の徳」とは徳の施しが周普だからである。『文言』に「徳博くして化す」といい、また「君徳なり」とあるのは、九二が人君の徳を有していることである。「初は則ち彰れず」とは潜伏して顕れないことである。「三は則ち乾乾」とは危惧して安んじないことである。「四は則ち或いは躍る」とは進退に疑いを抱くことである。「上は則ち亢ぐるに過ぐ」の過は甚だしきをいい、亢は極まることをいう。「大人を見るに利ろしとは、ただ二五のみ」とは、乾の一卦を模範として言っているゆえに「ただ二五のみ」というのである。別卦について言えば二五だけにとどまらない。ゆえに訟卦や蹇卦にも並べて「大人を見るに利ろし」といい、施される所が広いゆえに二五だけではないのである。諸儒は九二を太蔟の月(正月)に陽気が現れる時と見做したが、そうすると九三は建辰の月(三月)、九四は建午の月(五月)、九五は建申の月(七月)となり、陰気が初めて殺伐し始める時であって「飛龍天に在り」と称するには宜しくない。上九は建戌の月(九月)となり、群陰がすでに盛んであって上九を「時と偕に極まる」とは言えなくなる。この時に陽気は僅かに存するのみで何の極まることがあろうか。諸儒のこの説は道理において乖離している。この乾の陽気が漸進して生ずるのは聖人が漸進して出世するのに似ており、まさに十一月以降から建巳の月(四月)までに拠るべきである。この九二はまさに建丑(十二月)と建寅(正月)の間に当たり、その時地上の芽生えが初めて出るのは陽気が発現する義である。乾卦の象はまさにその通りである。ただし陰陽の二気は相共に歳功を成すゆえに、陰が興る時にもなお陽が在り、陽が生ずる月にもなお陰が存する。ゆえに六律六呂は陰陽が相間じわり、象を取って義を論ずることにおいてこれと異ならない。乾の初九は復卦と異ならず、乾の九二は臨卦と別がない。なぜ復・臨の二卦と異なるかといえば、易が象を論ずるにあたって復・臨の二卦はすでに群陰の象が上に現れているため、卦の象義を論じておのおの文をなす必要がある。この乾卦の初九や九二はただ居る位の一爻を論じるのみで群陰の象が現れていないため、ただ当爻の処地を自ら明かすだけであり、このために臨や復と異なるのである。

周易正義文言伝

「九二に曰く」から「君徳なり」まで。正義に曰く、これは九二の爻辞を解釈したものである。「子曰く龍徳にして正中なる者なり」とは、九二が中央に居て偏らないことをいう。しかし九五のように尊位に居て位を得ているのには及ばないため、ただ「龍徳にして正中なる者なり」という。「庸言の信、庸行の謹」とは、庸は中庸であり常である。始めから終りまで日頃の言葉は信実であり日頃の行いは謹慎である。「邪を閑ぎ其の誠を存す」とは、邪悪を防ぎ防波堤を築き、自らの誠実を保ち存すべきであることをいう。「世を善くして伐らず」とは、世に善を為しながら自らその功績を誇らないことである。「徳博くして化す」とは、徳が広博であり世俗を感化することをいう。初爻は完全に隠遁避世し、二爻は漸進して徳行を顕現させて世俗を感化する。舜が雷沢で漁をし河濱で陶器を焼き、器が脆く粗悪でなくなって民が次第に感化されたようなものがこれである。「易に曰く見龍田に在り大人を見るに利ろしとは君徳なり」とは、他の諸爻と異なるゆえに特に「易に曰く」と称したのである。「見龍田に在り」はまだ君位ではないが、ただ「君徳」というのである。

一撮金爻辞

九二・二爻・上上:得意の時に貴人に逢うが宜しく、前程に赴けば縁がある。名利は終には望みがあり、三五の月(十五夜の満月)のように円満とならん。

出典