周易本義爻辞
九は陽爻、三は陽位であり、剛を重ねて中を得ていない。下卦の上に居ることは危険な境地である。しかしその性の本体は剛健であり、よく乾乾として惕厲する象がある。ゆえにその占いはこのようである。君子とは占う者を指して言っている。能くこのように憂え懼れるならば、危険な境地に処すといえども咎なきことを言っている。
第3爻
九三:君子終日乾乾し、夕べに惕若たり。厲うけれども咎なし。
乾為天の九三は「終日乾乾し、夕べに惕若たり」と説かれ、下卦の頂点において重責と緊張感が高まる過渡期を表します。絶え間ない精進と慎重な内省を怠らなければ、危うさを克服して過ちを防ぐことができます。
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易経・四柱推命のリーディング依頼(eastalmanac.com より)。 Page: Hexagram 1 乾 — 第3爻. 二層構造で解釈してください。1)理法の根拠:卦爻の変爻や干支五行の力点と注意すべき盲点。2)実践的アドバイス:問いに対する率直な結論、動詞から始まる2〜3の具体的な行動指針と内省の要点。決定論を排し、自省と意思決定の参考にしてください。出典・詳解: https://eastalmanac.com/ja/yijing/1/3
陽位に陽爻を得て正しさを保つものの、中庸を外れ下卦の極みに位置して上卦に迫り、上下から挟まれて危機が潜んでいます。古典易学では、昼夜を問わず気を引き締め自己点検を繰り返す精神状態を重視し、それによって初めて難局を無傷で乗り切れるとされます。端的に言えば、要求や視線が厳しくなる局面ですが、細心の注意を払い誠実に対処すれば安全を確保できます。
業務上の責任が重くなり、成果に対する周囲のチェックも一段と厳格化しやすい段階です。伝統的な処世の知恵は、浮ついた自己主張を控え、目の前の課題を愚直に点検し続ける姿勢こそが最大の防御になると戒めています。簡単に言えば、成果を焦るよりも細部の確認と基本の徹底に集中することが、信頼を守る鍵となります。
外的な多忙や精神的プレッシャーが重なり、パートナーとの間で感情的なゆとりを失いやすい時期です。古典的な対人倫理では、外で抱えた緊張を家庭に持ち込まず、互いに労わり合いながら自省を深めることが大切だとされます。一言で言えば、相手に不満をぶつける前に一息つき、穏やかな傾聴を意識することが関係の安定を保ちます。
契約関係の見直しや日々の支出管理など、守りを固めてリスクを点検すべき局面に入っています。商の心得として、環境の節目には投機的な動きを避け、手元の資金状況を冷静に確認することが損失を防ぐとされます。要するに、不用意な支出や無理な取引を控え、現状の資産管理を徹底することが何より安全です。
終日乾乾とは、道を反復するなり。
周易本義爻辞
九は陽爻、三は陽位であり、剛を重ねて中を得ていない。下卦の上に居ることは危険な境地である。しかしその性の本体は剛健であり、よく乾乾として惕厲する象がある。ゆえにその占いはこのようである。君子とは占う者を指して言っている。能くこのように憂え懼れるならば、危険な境地に処すといえども咎なきことを言っている。
周易本義小象伝
「復」は芳服の反。本によっては「覆」にも作る。反復・重複・実践の意である。
伊川易伝爻辞
三は臣の位であるといえども、すでに下体のの上にあり、まだ下を離れていないが尊く顕著な者である。舜の徳が上に聞こえた時である。日夜怠らずして戦々恐々と戒め慎むならば、危険な境地に処すといえども咎はない。下に在る人でありながら君徳がすでに顕れ、天下がまさにこれに帰服しようとする時、その危惧すべきことは知るべしである。聖人の事を言うといえども、もし戒めを設けなければ何を以て教えとなすのか。これが易を作る義である。
伊川易伝小象伝
進退・動静は必ず道をもってすべきである。
周易注爻辞
下体の極みに処し、上体の下に居り、中を得ざる位にあって剛を重ねる険難を履んでいる。上は天に在らず、まだその尊位に安住することはできない。下は田に在らず、まだその居所に安んずることはできない。純粋に下の道を修めれば上に居る徳が廃れ、純粋に上の道を修めれば下に処する礼がおろそかになる。ゆえに「終日乾乾」とし、夕べに至ってもなお危うきに臨むがごとく惕れるのである。上に居て驕らず、下に在りて憂えず、時に因りて惕れ、その機微を失わなければ、危うくして労すといえども「咎なし」とすることができる。下卦の極みに処することは上九の極まり過ぎる亢龍に勝るゆえに、知力を尽くした後に咎を免れるのである。乾の三は下卦の上に処するをもって亢龍の悔いを免れ、坤の三は下卦の上に処するをもって龍戦の災いを免れるのである。
周易注小象伝
上をもって言えば驕らず、下をもって言えば憂えず、反復するもみな道である。
周易注文言伝
一卦の体の極みに処する、これが「至る」である。一卦の尽きるところに居る、これが「終る」である。事の至極に処して咎を犯さないのが「至るを知る」者である。ゆえに与に事務を成すことができる。終わりに処してその終りを全うできるのが「終るを知る」者である。物を進めることの速やかなることは義は利に及ばず、物を存して終らしめることは利は義に及ばない。ゆえに「初めあらざるはなし、克く終りあるは鮮し」という。「与に義を存すべし」とは、それただ「終るを知る」者であろうか。
下体の上に居り上体の下に在って、終りの衰弊を弁えているゆえに「驕らず」である。至るべきところに至ることを知っているゆえに「憂えず」である。惕とは怵惕(恐れ慎む)をいう。事の極みに処し、時を失えば廃れ、懈怠すれば荒れる。ゆえに「その時に因りて惕るれば、危うしといえども咎なし」というのである。
周易正義爻辞
「九三君子」から「夕べに惕若として厲うけれども咎なし」まで。正義に曰く、陽をもって三の位に居るゆえに「九三」と称し、中を得ていないがゆえに「大人」とは称さず、陽にして位を得ているがゆえに「君子」と称する。憂患と危険の地に在るがゆえに「終日乾乾」といい、日一日を終えるまで常に自ら強く努め励んで止むことがないことを言う。「夕惕」とは、日中を終えた後、夕方に至ってもなお憂え懼れることをいう。「若厲」とは、若は如であり厲は危である。常に憂え懼れることが危うきに臨むかのようであってはじめて咎なきを得ることを言う。このように戒め慎むことができれば罪過や咎はなく、もしそうでなければ咎がある。ゆえに『繋辞伝』に「咎なしとは、善く過ちを補うものなり」という。この一爻は陽が九三の位に居ることに因り、すべて人事をもってその象を明らかにしている。
注の「下体の極みに処す」から「龍戦の災いを免る」まで。正義に曰く、「下体の極みに処す」とは、極は終である。三は上卦の下、下体の極みであるゆえに「極」という。また「上体の下に居る」というのは、四・五・上は上体であり、三は四の下にあってまだ上体に入っていないが上体の下に居る。四はすでに上体に入ってその上体の下に居るゆえに、九四の注に「上体の下に居る」とあるのはこれと異なる。「重剛の険を履む」とは、上下ともに陽爻があり剛強で険難を好むがゆえに「重剛の険を履む」という。「上は天に在らず、未だ安んずるべからず」とは、天位に在ればその尊厳は自然に安泰であるが、上卦の下にあって下卦の上にあるといえどもその尊厳はまだ安泰ではないゆえに「未だ安んずるべからず」という。「下は田に在らず、未だその居を寧んずべからず」とは、田は居るべき場所であり中和の場所であるが、田に在らざる以上はその居所に安んずることはできない。「純脩下道なれば、居上の徳廃る」とは、もし純粋に下の道を修めて上卦に仕えるならば、己は下卦の上に居るのにその徳が廃れて卑小柔弱に過ぎることをいう。「純脩上道なれば、処下の礼曠し」とは、曠は空曠であり、己が下卦の上に居る道を純粋に修めて驕り高ぶるならば、上卦の下に処する礼が終には空虚におろそかになることをいう。「夕べに惕れて猶お厲きが若し」とは、夕方に至っても常に懼れを抱き、あたかも夕方前のように危うきに臨むがごときである。案ずるにこの卦の九三の居る所は実に危難がある。また『文言』に「危うしといえども咎なし」とあり、実に危うきが存在する。文脈の勢いに拠れば「若」の字は語助詞であるべきであるが、諸儒はみな「若」を「如」とし、危難があるかのようであって実際には危難がないと解釈しており、理としては尽くされていない恐れがある。今はひとまず「如」に依ってこれを解釈する。「時に因りて惕れ、その幾を失わず」とは、「時に因る」とは憂うべき時に因ることであり、ゆえに『文言』に「時に因りて惕る」といい、また「至るを知りてこれに至るは、与に幾すべし」という。これが「時に因りて惕れ、その幾を失わず」である。「危うくして労す」とは「若厲」が「危うし」であり、「終日乾乾」が「労す」である。「故に知力を竭して後に咎を免る」とは、王弼は九三と上九を並べて論じ、九三は下卦の極みに処してその位はなお卑しいがゆえに知力を尽くして咎を免れることができる。上九は上卦の上に在ってその位は極めて尊く、知力を尽くしても亢極を免れず、下が上に勝り卑が尊に勝ることを言っている。
周易正義小象伝
「潜龍用うるなかれ」から「反復道なり」まで。正義に曰く、これより以下「盈つれば久しかるべからず」までは夫子が六爻の象辞を釈されたものであり、これを「小象」と謂う。初九は陽が地中に潜んでいるゆえに「陽下に在るなり」という。経文に「龍」といい象伝に「陽」というのは、経に龍と称するものが陽気であることを明らかにしている。この一爻の象はもっぱら天の自然の気を明らかにしている。「見龍田に在り、徳の施し普し」とは、これを人事をもって言えば、龍徳を用いて田に在ることは聖人が世に出現して道徳の恩施が普遍に行き渡るのに似ている。『比卦』の初九の「用うるなかれ」は周普である。比の九五のごときは狭い。「終日乾乾、反復道なり」とは、これもまた人事をもって言っている。君子は終日乾乾として自ら強めて息まず、ゆえに反するも覆するもみなその道に合する。反とは進んで上に反ることであり、下卦の上に処して驕慢にならなければ反して道に合する。覆とは上から覆って下ることであり、上卦の下に居て憂懼しなければ覆して道に合するのである。
周易正義文言伝
「九三に曰く」から「与に義を存すべし」まで。正義に曰く、これは九三の爻辞を解釈したものである。「子曰く君子は徳を進め業を修む」とは、徳は徳行をいい業は功業をいう。九三が終日乾乾とする所以は、道徳を進益させ功業を修営しようと欲するからであり、ゆえに終日乾乾として怠らないのである。「徳を進む」とは「至るを知る」でありまさに進まんとし、「業を修む」とは「終るを知る」であり義を存するのである。「忠信は徳を進むる所以なり」とは、徳を進める事を重ねて解説したものであり、人に忠を尽くし信をもって物に接すれば人は親しんで尊び、その徳は日進する。これが「徳を進む」である。「辞を修め誠を立つるは業に居る所以なり」とは、辞は文教をいい誠は誠実をいう。外には文教を修治し内には誠実を立て、内外相成れば安住すべき功業がある。ゆえに「業に居る」という。上に「徳を進む」といい下にもまた「徳を進む」といい、上に「業を修む」といい下では変じて「業に居る」というのは、その間に「修辞」の文があるため「修」の文字を避けて「居業」と言ったのである。また功業は「居」というに宜しい。「至るを知りてこれに至る、与に幾すべし」とは、九三は一卦の極みに処し上卦の下に至ろうとしており、これが「至る」である。すでに上卦の下に居て凶咎を招かないのは「至るを知る」である。まさに至らんとする時節を知り理がまさに到らんとすることを知れば、幾事を共に論ずることができる。幾とは無を去り有に入る、理はあっても形がまだ現れない時である。この九三は時節がまさに至らんとし理が到らんとすることを知っているゆえに、共に幾を営むことができる。「終るを知りてこれを終る、与に義を存すべし」とは、一卦の尽きるところに居てその終りを全うすること、これが「終るを知る」である。すでにこの終極を知るならば、終尽の時にあたって共にその義を保存することができる。義とは宜しさであり、その位を保全して喪失することなく事において宜しきを得る。九三は自らを全うすることを知るがゆえに義を存することができる。しかし九三はただ一爻にすぎず、進んで幾を知らしめんとし、あるいは退いて義を存せしめんとする。一進一退その意は同じではなく、九三が進退の時に処しているため、進むべきであれば進み退くべきであれば退き、両者の意が並び行われるのである。
注の「一卦の極に処す」から「其れ唯だ終るを知る者か」まで。正義に曰く、「一卦の極に処す、これ至るなり」とは、荘氏に曰く「極とは至である。三は下卦の上に在り、至極である」と。褚氏に曰く「一卦の極が至であるとは、下卦がすでに極まり上卦の下に至ろうとすることであり、至とは上卦に至ることである」と。下に「下位に在りて憂えず」といい、注に「至るに至るを知るゆえに憂えず」というのは、人事をもって言っている。すでに「下位」というならば上卦の下にあって上卦に至らんと欲していることを知っているゆえに憂えないのであり、上卦に至らんとするを知ることである。荘氏の説のようにただ下卦の上の極みを至極とするならば、もし上卦の体がなければどうして至ることができようか。どうして幾を共にすることができようか。至るを知るとは上卦に拠って文を成していることがわかる。荘氏の説は誤りである。「事の至るに処して咎を犯さず」が「至るを知る」であるとは、三が上卦に近く事がまさに至らんとする時に礼をもって身を屈することを知り上卦の咎に触れないならば、事のまさに至らんとするを知るということである。「故に与に務を成すべし」とは、務は事務である。すでに事の先幾を識っているならば、共にその事務を成すことができる。「与」は許すのごとくであり、許すべき事柄を言っているのであり、この人が彼と相共にすることを言っているのではない。「物を進むるの速やかなるは、義は利に若かず」とは、利は機微に随って発し利を見て動くことである。義は分限に依って動きみだりに進取を求めない。ゆえに物を進める速やかさは義は利に及ばず、義は静にして利は動くがゆえである。「物を存して終らしむるは、利は義に及ばず」とは、すでに成った物を保全してみだりに動かないゆえに「利は義に及ばず」である。「故に初めあらざるはなし、克く終りあるは鮮し」とは、利を見て行い後顧を顧みないのが「初めあらざるはなし」であり、その業を守り成すことができないのが「克く終りあるは鮮し」である。
「是の故に上位に居りて驕らず、下位に在りて憂えず」。正義に曰く、「是の故に上位に居りて驕らず」とは、下体の上位に居て驕らないことであり、「終るを知る」ゆえに驕慢の心を抱かない。「下位に在りて憂えず」とは、上卦の下に処するがゆえに「下位」と称し、事のまさに至らんとするを知り幾に務めて進まんと欲するゆえに憂うべきではないのである。
注の「終敝を明らかにするが故に驕らず」から「故に憂えざるなり」まで。正義に曰く、「終敝を明らかにするが故に驕らず」とは「終るを知る」を解釈したものである。「至るに至るを知るが故に憂えず」とは「至るを知る」を解釈したものである。前の経文では「知至」が先で「知終」が後であったが、この経文で先に「知終」を解し後に「知至」を解したのは、文の便宜に随って言ったからである。
「故に乾乾として」から「咎なからん」まで。正義に曰く、九三はこのゆえに常に「乾乾」とするのである。そのすでに終わりすでに至るの時に因って心に懼れを抱き、危うくして安からずといえども、その終るを知り至るを知るがゆえに「咎なし」となる。
注の「事の極に処す」から「懈怠すれば曠し」まで。正義に曰く、「事の極に処し、時を失えば廃る」とは、三が下卦の上体に在り、事の極至に処していることである。至りて時を失って進まなければ幾務が廃絶するため、「乾乾」として進まねばならないのである。「懈怠すれば曠し」とは、すでに事の極に処し、極は終りであるからまさにすでに終えた業を保守すべきであり、もし懈怠驕逸すれば功業が空虚になるため「乾乾」とするのである。「時を失えば廃る」は「知至」を解し、「懈怠すれば曠し」は「知終」を解している。