周易本義爻辞
「幾」の音は機、帰妹卦と同じ。
畜止が極まって成就し、陰陽が和合した。ゆえに「既に雨ふり既に処る」の象となる。およそ陰徳を尊尚し、積満するに至って然るのである。陰が陽の上に加わるため、正当であってもまた危うい。しかし陰が既に盛んで陽に抗するならば、君子もまた征くべきではない。その占はかくのごとくであり、戒めとするところは深い。
第6爻
上九:既に雨ふり既に処る。徳の載つるを尚ぶ。婦は貞なれども厲うし。月、望に幾し。君子征けば凶なり。
上九は小畜の極みにあり、蓄積が飽和に達したため、これ以上の進軍を慎むべき潮時を示しています。伝統的な易学では「月幾望」の警句の通り、満ち足りた後は無理な進出を控え、現状維持と守りに徹することが不測の事態を避ける道とされます。
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易経・四柱推命のリーディング依頼(eastalmanac.com より)。 Page: Hexagram 9 小畜 — 第6爻. 二層構造で解釈してください。1)理法の根拠:卦爻の変爻や干支五行の力点と注意すべき盲点。2)実践的アドバイス:問いに対する率直な結論、動詞から始まる2〜3の具体的な行動指針と内省の要点。決定論を排し、自省と意思決定の参考にしてください。出典・詳解: https://eastalmanac.com/ja/yijing/9/6
小畜の最上段に位置する上九は、蓄積の勢いが限界に達して変卦の水天需へと移り変わる節目を表しています。小象伝が「君子征けば凶とは、疑う所あるなり」と述べるように、古典的伝統では蓄積が満杯となった段階でさらなる拡大を強行すれば摩擦や猜疑を招くと戒めます。すでに得られた成果に満足して立ち止まる分別を持つことで、不要な波風を立てずに平穏を保つことができます。
キャリアやプロジェクト運営において、上九は一つの節目や目標が達成され、新たな攻勢よりも総括と引き締めが求められる段階を示唆しています。伝統的な知見では、功を成した直後にさらなる野心を押し通そうとすると、周囲の警戒や反発を生みやすいと忠告されます。無理な拡張を追うのではなく、現在の成果を丁寧に固めて調和を維持することこそが、今取るべき賢明な判断です。
パートナー関係において、上九はこれまでに築いた関係性が一定の安定に達した一方で、過度な要求や追及が摩擦を生みやすい局面を映しています。古典的な読み筋では、物事が収まった後に細かな非を責め立てたり主導権を争ったりすると、疑心暗鬼を生んで平穏を損なうと戒められます。相手に完璧を求めすぎず、今ある穏やかな日常を受け入れて互いを尊重することが関係を守る知恵です。
資産や資源の運用において、上九はこれまでの蓄積が実を結んだものの、さらなる拡大を狙うには環境が過熱している兆候を示しています。伝統的な指針では、満月に近い状態ほど反転の影が忍び寄るため、投機的な深追いや過剰なリスクテイクを戒める局面とみなされます。得られた成果を確実に守る姿勢を優先し、保守的な管理に切り替えることが手元の基盤を安定させます。
既に雨ふり既に処るとは、徳の積み載てるなり。君子征けば凶なりとは、疑う所あるなり。
周易本義爻辞
「幾」の音は機、帰妹卦と同じ。
畜止が極まって成就し、陰陽が和合した。ゆえに「既に雨ふり既に処る」の象となる。およそ陰徳を尊尚し、積満するに至って然るのである。陰が陽の上に加わるため、正当であってもまた危うい。しかし陰が既に盛んで陽に抗するならば、君子もまた征くべきではない。その占はかくのごとくであり、戒めとするところは深い。
伊川易伝爻辞
九(上九)は巽順の極みを以て卦の上に居り、畜の終わりに処し、畜に従いて止まる者である。六四の止むる所となるのである。「既雨」とは和することであり、「既処」とは止まることである。陰が陽を畜(とど)めるのは、和合しなければ止めることができず、既に和して止まり、畜の道が成るのである。山天大畜は畜むることが大なるがゆえに極まって散じ、風天小畜は畜むることが小なるがゆえに極まって成就する。「徳を尚びて載つ」とは、六四が柔巽の徳を用い、徳が積満して成就に至ることをいう。陰柔が剛を畜めるのは一朝一夕に成るものではなく、積み重ねによって至るのであるから、戒めざるを得ようか。「載」とは積満である。『詩経』に「厥の声、路に載(み)つ」とある通りである。「婦貞厲」とは、婦とは陰をいう。陰を以て陽を畜め、柔を以て剛を制する。婦にしてもし貞固にこれを守るならば危厲の道である。どうして婦がその夫を制し、臣がその君を制して安泰でいられることがあろうか。
月が望(満月)となれば日(太陽)と敵対する。「幾望」とはその盛んさがまさに敵対しようとすることをいう。陰は既に能く陽を畜めているのに「幾望」と云うのはなぜか。これは柔巽を以てその志を畜めるのであって、力によって制するのではない。しかし止めなければまさに陽より盛んになって凶となる。幾望においてこれを戒めて「婦がまさに敵対しようとしており、君子が動けば凶である」というのである。君子とは陽をいい、征とは動くことである。幾望とはまさに満ちようとする時である。もし既に望となったならば陽は既に消滅しており、なお何を戒めることがあろうか。
伊川易伝小象伝
「既に雨ふり既に処る」とは、畜道が積満して成就することをいう。陰がまさに盛んを極めようとし、君子が動けば凶がある。陰が陽に敵対すれば必ず陽を消し、小人が君子に抗すれば必ず君子を害(そこな)う。どうして疑懼・憂慮せずにいられようか。もしあらかじめ疑慮を知って警戒・畏懼し、これを制する道を求めるならば、凶には至らないのである。
周易注爻辞
風天小畜の極に処し、能く畜(とど)める者である。陽は亨通を得られない、ゆえに「既雨」というのである。剛も侵すことができない、ゆえに「既処」というのである。巽を体として上に処し、剛もあえて犯すことがなく、「徳を尚ぶ」者である。陰の長となり、能く剛健を畜め、徳が積載する者である。婦がその夫を制し、臣がその君を制するのは、正当であるとしても危うきに近く、ゆえに「婦貞厲」というのである。陰の盈盛、これより盛んなるものはなく、ゆえに「月幾望」というのである。満ちてさらに進めば、必ずその道を失い、陰が陽に疑い抗えば、必ず戦伐を見ることになる。君子といえども征くときは必ず凶であり、ゆえに「君子征凶」というのである。
周易注小象伝
それ下に処りて征きて咎なきを得る者は、ただ地天泰においてのみ然りである。坤は本体が下であり、また順にして弱く、剛に敵することができない。それゆえその類を全うして征きて吉となるのである。これより以後は、その進むに各々難がある。巽は艮の善く畜めるがごときことはできないとしても、なお坤のように順従することを肯んじない。それゆえ少し進むことはできても、ことごとく陵(しの)ぐことはできないのである。ここをもって初九・九二はその復るならば可であるが、九三に至っては「輿、輻を説く」となるのである。山天大畜とは畜の極である。畜めてやまず、畜極まれば通ずる。ここをもってその畜の盛んなるは四・五にあって、上九に至れば道がここにおいて大いに行われる。風天小畜は積もりが極まってのちに能く畜めるのであり、ここをもって四・五は進むことができ、上九が征くの輻を脱するのである。
周易正義爻辞
「上九、既に雨ふり既に処る」より「君子征けば凶なり」に至るまで。
正義に曰く、「既に雨ふり既に処る」とは、九三が進まんと欲するのを、已に能くこれを固め、陰陽が通ぜず、ゆえに已にその雨を得るのである。「既処」とは、九三も侵すことができず、危害を憂えず、ゆえに已にその処るを得るのである。「徳を尚びて載つ」とは、巽を体として上に処り、剛もあえて犯さず、陰の長となって能く剛健を畜め正し、この徳の積聚して運載するを慕尚する、ゆえに「徳を尚びて載つ」というのである。この道徳の積載を慕尚することをいう。「婦貞厲」とは、上九が九三を制するのは、これ婦がその夫を制し、臣がその君を制することであり、また貞正なりといえども危厲に近きことである。「月幾望」とは、婦人の夫を制するのは、あたかも月が望(満月)にある時に盛んの極みにして日と敵対するがごときである。「幾」は辞であり、已に上において釈したため、ここでは重ねて言わないのである。「君子征凶」とは、陰が陽を疑えば必ず戦伐を見ることになり、また君子の行いといえども凶であるということである。
注の「小畜の極に処し」より「君子征凶」に至るまで。
正義に曰く、「小畜の極に処し、能く畜むる者なり」とは、已に小畜の盛極に処り、これ閉塞し畜止する者である。「陽亨通するを得ず、故に既に雨ふるなり」とは、陽がもし亨通すれば雨ふらない。卦の繋辞に「小畜は亨る。密雲にして雨ふらず」という所以である。今、九三の陽は上九の固むる所を被り、亨通を得られない、ゆえに「既雨」というのである。
周易正義小象伝
「《象》に曰く、既に雨ふり既に処る」より「疑う所あるなり」に至るまで。
正義に曰く、「既に雨ふり既に処る、徳積載す」とは、「既雨既処」の義を解釈するものである。「既雨既処」を得る所以のものは、上九の道徳が積聚し、運載すべく、人に慕尚せしめるを以て、ゆえに「既雨既処」というのである。「君子征けば凶なり、疑う所あるなり」とは、「君子征凶」の義を解釈するものであり、「征凶」である所以のものは、陰気が盛満し、陽に疑忌される所となり、必ず戦伐を見ることになる、ゆえに「征凶」というのである。
注の「それ下に処りて」より「征くの輻を説く」に至るまで。
正義に曰く、「それ巽は艮の善く畜むるがごとくあること能わずと雖も」とは、山天大畜において艮卦が上に在りて善く下の乾を畜めるがごときことはできないことをいうのである。「巽は艮の善く畜むるがごとくあること能わず」、ゆえにその畜めることは小である。「なお坤の順従たるを肯んぜざるなり」とは、なお地天泰において坤が上に在りて乾に順従するがごときことは肯んじないことをいうのである。「故に少し進むを得べし」とは、初九・九二が前進を得ることをいう。「ことごとく陵ぐべからず」とは、九三が上九を陵がんとするも、上九に固められ、ことごとく陵ぐことはできないということである。「畜めてやまず、畜極まれば則ち通ず、ここをもってその畜の盛んなるは四・五に在りて、上九に至れば道乃ち大いに行われる」とは、これは山天大畜の義を論ずるものである。山天大畜は畜めてやまず、これを「大畜」という。四爻・五爻は畜の盛極であり、休止することなく、畜極まれば通ずる。四・五の畜道は既に極まり、上九に至れば畜めるべき所がないため、上九の道はここにおいて大いに行われ、畜める所がないのである。「小畜は積極まりてのちに能く畜む」とは、風天小畜の道は微小であり、その終極に積もって上九に至り、ようやく能く畜めるのであり、九三を「畜める」ことをいう。「ここをもって四・五は進むべし」とは、四は初を畜め、五は二を畜めると雖も、畜道が既に弱いため、九二は進むことができる。「上九は征くの輻を説く」とは、上九は畜めること「積極まる」がゆえに、能くこの九三の征行の輻を説く(脱する)のである。案ずるに、九三にはただ「輻を説く」とあって「征」の文はない。しかるに王氏が上九は「征くの輻を説く」というのは、輿に輻(とこしばり)があれば征行することができる。九三爻に「征」の義があり、いま輿の輻が既に説かれれば、すなわちこれは征行の輻を説くことであり、上九の「征凶」の文に因るのである。征とは行進である。経文には言わないとしても、義において必ず言及されるのである。「輻(とく)」とは、鄭玄の注に「輿の下の縛木、軸と相連なりて鉤心するの木をいう」とあるのがこれである。『子夏伝』には「輻は車の劇なり」という。
一撮金爻辞
上九(六爻の上中): 遷らんと欲すれどもいまだ遷るべからず、喜びの処にかかわりを引き起こすを提防せよ。前途もし陰人の導きを得るならば、魚龍と変化して大淵を出でん。