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今日の卦 2026年1月27日火曜日: #1 乾為天 (乾)

それぞれの暦日は一つの卦に決定論的に対応します——文王卦の順で64日を一巡する連続輪転によるものです。占わず、乱数もありません。

乾:元いに亨る。貞に利ろし。

現代解釈

乾為天は純陽の剛健さを備え、天の運行のように力強く万物を生み出す根源的な動力を象徴します。伝統的には「元亨利貞」の四徳を具備する大吉の卦とされ、正道を堅固に保つことによって確固たる基盤を築けると伝えられています。

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プロンプトプレビュー
易経・四柱推命のリーディング依頼(eastalmanac.com より)。
Page: Daily hexagram 2026-01-27: #1 乾為天.
二層構造で解釈してください。1)理法の根拠:卦爻の変爻や干支五行の力点と注意すべき盲点。2)実践的アドバイス:問いに対する率直な結論、動詞から始まる2〜3の具体的な行動指針と内省の要点。決定論を排し、自省と意思決定の参考にしてください。出典・詳解:
https://eastalmanac.com/ja/daily-hexagram/2026-01-27/

八字命式

四柱推命の観点において、純乾の構造は旺盛な庚辛の金気や力強い陽の生気に通じ、極めて雄大なスケールと突破力を示唆します。伝統的な命理学では、その剛直さゆえに独断専行や孤立を招きやすい傾向があるため、柔軟な調和を保つことが肝要と説かれます。要するに、生まれ持った強い推進力を活かしつつ、他者への配慮と忍耐を忘れない姿勢が大切です。

西洋占星術

占星術の視点では、純陽の乾は天頂で燦然と輝く太陽を思わせ、個人の意志の強さや外に向けられた強い指導力を象徴します。伝統的な星象の解釈によれば、強烈な光は時に周囲への配慮を欠く焦燥感や盲点を生みやすいため、内省による自己規律が不可欠とされます。端的に言えば、前進する勢いがある時だからこそ、落ち着いて足元を固めることが実りをもたらします。

易の占い

上下ともに乾が重なるこの卦は、天の運行が休みなく続くように、不屈の精神で進むべき大いなる循環を示しています。『彖伝』や『大象伝』が「自彊やまず」「大和を保合す」と説くように、順調な始まりを真の結実へ導くには正義と節度を守ることが求められます。分かりやすく言えば、運気は雄大に開けているため、誠実な態度で道理に沿った行動を貫くことが鍵となります。

仕事・キャリア

仕事面においては、新たな領域を切り開き自ら主導権を握っていく好機を示す配置と解釈されます。伝統的な職務の観点では、強力な牽引力が成果を呼ぶ一方で、強引な進め方は周囲の反発を買いかねないと注意を促しています。平たく言えば、リーダーシップを発揮できる充実期ですが、独善に陥らず周囲の納得を得ながら進めることが成功の秘訣です。

金運

財政的な側面では、源泉から絶え間なく湧き出る水流のように、事業規模の拡大や骨太な資産設計に向く象意とされています。古典的な商道においては、旺盛な勢いに任せて無理な拡張に走るのではなく、堅実な資金管理と法令遵守を重んじるべきだと考えられています。一言で言えば、衝動的な支出を避け、手堅い計画と規律を守ることが長期的な安定につながります。

恋愛・対人

対人・恋愛関係では、率直で頼もしいアプローチができる反面、自己の主張が強まり相手の気持ちを置き去りにしやすい傾向が示唆されます。伝統的な易理では剛柔のバランスが幸福の源とされ、一方的な主導権争いは距離を生むと戒められています。要するに、相手を尊重して耳を傾ける優しさを持つことで、より深い絆を築くことができます。

健康

東洋の養生思想において、乾金は呼吸器系や大腸、頭部などの陽気と深く結びついており、過度の緊張や熱の偏りに注意が必要とされます。古典的な健康観では、気力が高ぶる時期ほど滋陰潤燥を心がけ、過労を避けて心身を休める知恵が勧められます。簡潔にまとめれば、無理にエネルギーを消耗し続けず、意識的にリラックスする時間を設けることが健康維持の要です。

自己成長

自己鍛錬の領域では、天の運行にならって高潔な志を立て、揺るぎない生活規律を構築する絶好の段階を迎えています。伝統的な修身の教えは、外の世界を屈服させることではなく、自身の慢心を律して誠実さを磨くことこそが真の強さであると伝えています。つまり、自分自身の行動原理を正しく磨き続けることが、最も確固たる自信の源となります。

相性

対人関係や共同作業において双方ともに乾の気質を持つ場合、互いに高め合える力強さがある半面、主導権をめぐる摩擦が生じやすいとされます。伝統的な知恵では、双方が剛を競い合うと衝突が避けられないため、明確な役割分担と互いへの敬意が不可欠であると説かれます。要するに、高い目標を共有しつつも、一歩譲り合う柔軟性を持つことで良好な協力関係が築けます。

運の流れ

大運において乾に出会う時期は、人生の基盤をダイナミックに広げ、重責を担いながら躍進する発展期を示しています。伝統的な運勢観では、順調な時ほど有頂天にならず、先々の変化を見据えて備えることが繁栄を長く保つ道であるとされます。平たく言えば、前向きな行動が実を結びやすい時期ですので、足元を一歩ずつ着実に固めていくのが最善です。

年運

年の運気として乾が現れる年は、新たな挑戦や責任ある役割の引き受けを通じて、活動の密度が一段と高まる傾向を示します。古典的な注釈では、活況に満ちた年であると同時に心身の負荷も増しやすいため、ペース配分が重要であると指摘されています。総じて、自身の本分を丁寧に見極め、慌てず落ち着いて責務を果たすことで充実した一年となります。

姓名判断

名づけにおいて乾の象意を取り入れる際は、清明で品格があり、大所高所から物事を見渡すような字義が好まれる伝統があります。姓名判断の通念では、金気が過度に強くなりすぎないよう、温かみや柔軟性をもたらす要素を添えてバランスを取ることが推奨されます。一言で言えば、高遠な志と他者を包み込む優しさを兼ね備えた名が、本人の徳を高めるとされます。

吉日選択

日選びにおいて乾の気が満ちる日柄は、創業や調印、重要な計画の始動など、物事の新たな出発点にふさわしい吉兆とみなされます。伝統的な暦学では、激しすぎる時間帯を避け、陽気が清らかに調和する時を選ぶことが「元亨」の恩恵を受ける心得とされます。分かりやすく言えば、誠実な動機を持って正攻法で物事を始めるのに適したタイミングです。

風水

風水において乾は北西の方角を司り、一家の主や組織の指導力、揺るぎない秩序を象徴する重要な方位とされます。古典的な家相の知見では、北西を常に清潔で明るく保ち、強い火気や雑然とした乱れを避けることが気場の安定を守るとされています。端的に言えば、北西の空間を端正に整えておくことが、住まいや環境全体の落ち着いた秩序を支えます。

参考資料

原文

彖伝

大いなるかな乾元、万物資りて始まる、乃ち天を統ぶ。雲行きて雨施され、品物流形す。終始を大いに明らかにし、六位時に成る。時に六龍に乗じて以て天を御す。乾道変化して、各々性命を正しくし、大和を保合するは、乃ち利貞なり。庶物に首出して、万国ことごとく寧し。

大象伝

天の行は健なり、君子以て自ら強めて息まず。

文言伝

元とは善の長なり。亨とは嘉の会なり。利とは義の和なり。貞とは事の幹なり。君子、仁を体すれば以て人に長たるに足り、嘉会は以て礼に合するに足り、物を利するは以て義を和するに足り、貞固は以て事に幹たるに足る。君子はこの四徳を行う者なり、故に曰く「乾は元・亨・利・貞」と。初九に曰く「潜竜、用うるなかれ」とは、何の謂いぞや。子曰く「竜の徳ありて隠るる者なり。世に変ぜず、名を成さず、世を遯れて悶えるなく、是とせられずして悶えるなし。楽しめばこれを行い、憂うればこれを避け、確乎として抜くべからざるは、潜竜なり」と。

九二に曰く「見竜田にあり、大人を見るに利ろし」とは、何の謂いぞや。子曰く「竜の徳ありて正中なる者なり。庸言これ信、庸行これ謹み、邪を閑ぎてその誠を存し、世を善くして伐らず、徳広くして化す。易に曰く『見竜田にあり、大人を見るに利ろし』とは、君徳なり」と。

九三に曰く「君子終日乾乾し、夕べに惕若たり、厲うけれども咎なし」とは、何の謂いぞや。子曰く「君子は徳を進め業を修む。忠信は徳を進むる所以なり。辞を修めその誠を立つるは業に居る所以なり。至るを知りてこれに至るは、与に幾を言うべし。終るを知りてこれを終うるは、与に義を存すべし。是の故に上位に居れども驕らず、下位に在れども憂えず。故に乾乾してその時に因りて惕るれば、危うしと雖も咎なきなり」と。

九四に曰く「或いは躍りて淵に在り、咎なし」とは、何の謂いぞや。子曰く「上下すること常に非ざるも、邪を為すに非ず。進退すること恒に非ざるも、群を離るるに非ず。君子、徳を進め業を修むるは、時に及ばんと欲するなり。故に咎なし」と。九五に曰く「飛竜天にあり、大人を見るに利ろし」とは、何の謂いぞや。子曰く「同声相応じ、同気相求む。水は湿に流れ、火は燥に就き、雲は竜に従い、風は虎に従う。聖人作して万物覩る。天に本づく者は上に親しみ、地に本づく者は下に親しむ。則ち各々その類に従うなり」と。

上九に曰く「亢竜、悔いあり」とは、何の謂いぞや。子曰く「貴くして位なく、高くして民なく、賢人下位に在りて輔けなし。是を以て動きて悔いあるなり」と。「潜竜用うるなかれ」とは、下なればなり。「見竜田にあり」とは、時捨つるなり。「終日乾乾」とは、事を行うなり。「或いは躍りて淵に在り」とは、自ら試みるなり。「飛竜天にあり」とは、上治まるなり。「亢竜悔いあり」とは、窮まるの災いなり。「乾元用九」とは、天下治まるなり。「潜竜用うるなかれ」とは、陽気潜蔵す。「見竜田にあり」とは、天下文明なり。「終日乾乾」とは、時と偕に行う。

「或いは躍りて淵に在り」とは、乾道乃ち革まる。「飛竜天にあり」とは、乃ち天徳に位す。「亢竜悔いあり」とは、時と偕に極まる。「乾元用九」とは、乃ち天の則を見せる。乾元とは、始まりて亨る者なり。利貞とは、性情なり。乾は能く美利を以て天下を利し、利する所を言わず、大いなるかな。大いなるかな乾元、剛健中正にして純粋精なり。六爻発揮して、情を旁通す。時に六龍に乗じ、以て天を御す。雲行きて雨施され、天下平らかなり。君子は徳を成すを以て行いと為し、日々に現るべき行いなり。潜の言たるや、隠れて未だ見れず、行いて未だ成らず、是を以て君子は用いざるなり。

君子は学以てこれを集め、問以てこれを弁じ、寛以てこれに居り、仁以てこれを行う。易に曰く「見竜田にあり、大人を見るに利ろし」とは君徳なり。九三は重剛にして中ならず、上は天に在らず、下は田に在らず。故に乾乾してその時に因りて惕るれば、危うしと雖も咎なきなり。九四は重剛にして中ならず、上は天に在らず、下は田に在らず、中は人に在らず、故にこれを「或いは」とす。「或いは」とする者は、これを疑うなり、故に咎なし。

夫れ大人とは、天地とその徳を合一し、日月とその明を合一し、四時とその序を合一し、鬼神とその吉凶を合一す。先天にして天も違わず、後天にして天時を奉ず。天すら且つ違わず、況んや人においてをや、況んや鬼神においてをや。亢の言たるや、進むを知りて退くを知らず、存するを知りて亡ぶるを知らず、得るを知りて喪うを知らず。それ唯だ聖人か。進退存亡を知りてその正を失わざる者は、それ唯だ聖人なるか。

古典注釈

周易本義卦辞

乾は渠焉の反。六画の卦は伏羲が画かれた卦である。一とは奇であり、陽の数である。乾とは健やかさであり、陽の性質である。本注の「乾」の字は三画の卦の名である。下にあるものは内卦、上にあるものは外卦である。経文の「乾」の字は六画の卦の名である。伏羲は天を仰ぎ地を察し、陰陽に奇と偶の数があることを見て、それゆえ一奇を画いて陽を象り、一偶を画いて陰を象った。一陰一陽がそれぞれまた一陰一陽を生ずる象を見て、それゆえ下から上へと再び倍にして三画とし、以て八卦を成した。陽の性は剛健であり、それが形を成すものの最大なるものが天であることを見て、それゆえ三奇の卦を名づけて乾といい、これを天に擬したのである。三画がすでに具わり八卦がすでに成ると、さらにその画を三倍にして六画を成し、八卦の上にそれぞれ八卦を加えて六十四卦を成した。この卦は六画がすべて奇であり、上下ともに乾であるから、陽の純粋にして剛健の至りである。ゆえに乾という名も天という象もともに変わることがない。「元亨利貞」は文王が繋がれた辞であり、一卦の吉凶を断ずるもので、いわゆる彖辞である。元は大である。亨は通じることである。利は宜しいことである。貞は正しくして堅固であることである。文王は乾の道は大いに通じて至極正しいと考えた。ゆえに筮してこの卦を得て六爻ともに変じない場合、その占いはまさに大いに通ずるを得るが、必ず正固にあることが利であり、然るのちにその終りを保つことができると言ったのである。これこそ聖人が易を作り人に卜筮を教えて、万物を開発し事業を成し遂げさせる精妙なる趣旨である。残りの卦もこれに準ずる。

周易本義彖伝

彖は吐乱の反。彖とは文王が繋がれた辞であり、伝とは孔子が経を解釈された辞である。以降、伝というものはすべてこれに準ずる。ここではもっぱら天道によって乾の義を明らかにし、また元亨利貞を四徳に分かってこれを明らかにしており、この一節はまず「元」の義を解釈している。「大なる哉」は感嘆の辞である。元は大であり、始である。乾元は天徳の大いなる始原であるため、万物の生ずることはみなこれに資って始とするのである。また四徳の首であり、天徳の始めと終りを貫く。ゆえに「天を統ぶ」という。「施」は始豉の反。卦内も同じ。これは乾の「亨」を解釈したものである。

始とは元のことであり、終とは貞をいう。終りがなければ始原もなく、貞でなければ元を成すこともできない。これは聖人が乾道の終始を大いに明らかにし、卦の六位がおのおの時によって成り、この六陽に乗じて天道を行うことを見届けることを言っている。これこそ聖人の元亨である。

変とは化の漸進であり、化とは変の成就である。物が受けるところのものを性とし、天が賦与するところのものを命とする。太和とは陰陽が会合した沖和の気である。「おのおの正しくす」とは生を受けた初めに得たものであり、「保合す」とはすでに生じたのちに全うすることである。これは乾道の変化において利ならざるはなく、万物がおのおのその性命を得て自らを全うすることを言い、以て「利貞」の義を解釈している。

聖人が上位にあって物よりも高く抜きん出ているのは、あたかも乾道の変化のようである。万国がおのおのその所を得てことごとく安寧であるのは、あたかも万物がおのおの性命を正しくし太和を保合するかのようである。これは聖人の利貞を言っている。およそ統括して論ずるに、元とは物の生じ始めることであり、亨とは物が暢達して茂ることであり、利とは結実へと向かうことであり、貞とは実を結び成ることである。実がすでに成れば、その根蔕は脱落し、再び種となって生ずることができる。これが四徳が循環して端緒なき所以である。しかし四者の間には生気が流行し、もとより間断はない。これこそ元が四徳を包んで天を統べる所以である。これを聖人について言えば、孔子の意図はおそらく、この卦を聖人が天位を得て天道を行い太平を致す占としたのである。その文義には文王の旧義と一致しないところもあるが、読者がそれぞれその意を尋ねれば、並行して悖ることはない。坤為地もこれに準ずる。

周易本義大象伝

象とは卦の上下の二象および二象の六爻について周公が繋がれた辞である。天は乾の卦の象である。およそ重卦はすべて重なる義を取るが、この卦だけがそうでないのは、天は一つにすぎないからである。ただ天の行いを言えば、一日に一周し、翌日もまた一周して、あたかも重複する象が見えるのであり、至極剛健でなければ能わない。君子はこれに法り、人欲をもって天徳の剛健を害することがなければ、自ら彊めて息まないのである。

周易本義文言伝

「長」は丁文の反。下の「長人」も同じ。「幹」は古旦の反。この篇は彖伝・象伝の意を重ねて述べ、乾坤二卦の奥蘊を尽くしたものであり、他の卦の説明もこれによって類推することができる。元とは物を生ずる始めであり、天地の徳においてこれに先立つものはない。ゆえに時にあっては春となり、人にあっては仁となり、あらゆる善の長である。亨とは物を生ずる通達であり、物がここに至れば美しく整わぬものはない。ゆえに時にあっては夏となり、人にあっては礼となり、あらゆる美の集いである。利とは物を生ずる成遂であり、物がおのおの宜しきを得て互いに妨げ合わない。ゆえに時にあっては秋となり、人にあっては義となり、その分限の調和を得る。貞とは物を生ずる成就であり、実理が具備して至る所でおのおの満ち足りている。ゆえに時にあっては冬となり、人にあっては智となり、あらゆる事の幹となる。幹とは木の本幹であり、枝葉がこれに依って立つところのものである。

仁を本体とすれば、一物として愛の中にないものはない。ゆえに人に長たるに足る。その集うところを美しくすれば礼に合わないものはなく、物におのおのその利を得させれば義において和ならざるはない。貞固とは正しさの所在を知ってこれを固く守ることであり、いわゆる知って去らぬことである。ゆえに事の幹となるに足るのである。

君子の至健でなければこれを行うことはできない。ゆえに「乾は元亨利貞」という。この第一節は彖伝の意を重ねて述べたものであり、『春秋左氏伝』に載せる穆姜の言葉と異ならない。思うに古くからすでにこの言葉があり、穆姜がこれを称え、夫子もまた取るところがあったのだろう。ゆえに下文で別に「子曰く」と挙げて孔子の辞であることを明示したのは、伝を記した者がこの章の古語たることを明らかにしたかったからである。

「楽」は音は洛、苦学の反。龍徳とは聖人の徳である。下に在るゆえに隠れる。易とはその守るところを変えることをいう。およそ乾の六爻の文言はみな聖人によってこれを明らかにしており、隠顕はあるが浅深はない。「行」は下孟の反。「邪」は以嗟の反。正中とは潜でもなくまだ躍り上がってもいない時である。日頃の言葉も信実であり、日頃の行いも慎み深いのは、盛徳の極みである。邪を閑ぎその誠を存し、斁くることなきもまた保つの意である。「君徳なり」とは大人が九二たるゆえんを解釈したものである。

「幾」は音は機。忠信が心において主となるのは、一念として不誠なきことである。修辞が事において現れるのは、一言として不実なきことである。忠信の心があるといえども、言葉を修めて誠を立てなければ、これに安住することはできない。「至るを知りてこれに至る」とは徳を進める事であり、「終るを知りてこれを終る」とは業を居くする事である。終日乾乾して夕べにもなお惕若とする所以は、このためである。上るもよく下るもよく、驕らず憂えないのは、いわゆる「咎なき」ことである。

九四に「或いは躍りて淵に在り、咎なし」とあるのは、何の謂いか。子曰く、上下定まりなきも邪をなすにあらず、進退恒なきも群を離るるにあらず。君子は徳を進め業を修め、時に及ばんと欲す。ゆえに咎なし。「離」は去声。内卦は徳と学によって言い、外卦は時と位によって言う。徳を進め業を修めることは九三で備わっており、ここでは時に及んで進まんとするのである。

九五に「飛龍天に在り、大人を見るに利ろし」とあるのは、何の謂いか。子曰く、同声相応じ、同気相求む。水は湿てるに流れ、火は燥けるに就き、雲は龍に従い、風は虎に従う。聖人作りて万物睹る。天に本づく者は上を親しみ、地に本づく者は下を親しむ。則ち各々其の類に従うなり。「応」は去声。「作」は起きることである。「物」は人のごときものである。「睹」は利見の意を解釈したものである。天に本づく者とは動物をいい、地に本づく者とは植物をいう。物はおのおのその類に従う。聖人は人類の首である。ゆえに上に興起すれば、人々はみなこれを仰ぎ見るのである。

上九に「亢龍悔いあり」とあるのは、何の謂いか。子曰く、貴くして位なく、高くして民なく、賢人在下位にして輔なし。是を以て動けば悔いあるなり。賢人在下位とは九五以下をいう。輔なしとは上九が高きに過ぎ志が満ちているため、これを輔佐しに来ないことである。この第二節は象伝の意を重ねて述べている。「潜龍用うるなかれ」とは下なればなり。「見龍田に在り」とは時舎まるなり。「舎」は音は捨。いまだ時に用いられないことをいう。「終日乾乾」とは事を生ずるなり。「或いは躍りて淵に在り」とは自ら試みるなり。にわかに行うことなく、ひとまずその可否を試みるのである。

「飛龍天に在り」とは上治なり。「治」は平声。上に居て下を治めることである。「亢龍悔いあり」とは窮まるの災いなり。「乾元用九」とは天下治まるなり。「治」は去声。乾元用九は他卦と異なることを示している。君道が剛にしてよく柔なれば、天下は治まらざるはない。この第三節は再び前の意を重ねて述べている。「潜龍用うるなかれ」とは陽気潜蔵すればなり。「見龍田に在り」とは天下文明なり。上位に在らずといえども、天下はすでにその感化を被っている。「終日乾乾」とは時と偕に行うなり。時の当然である。「或いは躍りて淵に在り」とは乾道すなわち革まるなり。

下を離れて上へと向かう変革の時である。「飛龍天に在り」とはすなわち天徳に位するなり。天徳とは天位のことである。唯だこの徳があってこそこの位に居るのが宜しいので、その名をつけている。「亢龍悔いあり」とは時と偕に極まるなり。「乾元用九」とはすなわち天の則を見るなり。剛にしてよく柔なるは天の法である。この第四節はまた前の意を重ねて述べている。「乾元」とは始原にして亨通するものである。始まれば必ず亨通する、理の勢いとして然るべきことである。「利貞」とは性情である。収斂し帰蔵して、はじめて性情の実が見える。

乾は始めて美利をもって天下を利す、利するところを言わず、大なる哉。始とは元にして亨である。天下を利するとは利である。利するところを言わないとは貞である。あるいは坤は牝馬の利と言っており、利するところを言っている。大なる哉乾や、剛健中正にして純粋の精なり。

剛は体をもって言い、健は用を兼ねて言う。中とはその行いに過不及がないことであり、正とはその立ち位置が偏らないことである。四者は乾の徳である。純とは陰柔に雑わらないことであり、粋とは邪悪に雑わらないことである。剛健中正の極みであり、精とはさらに純粋の至極である。あるいは乾は剛にして柔がないので中正を言うべきではないと疑う者がいるが、それは正しくない。天地の間はもともと一気の流行であり、ただ動静があるだけである。その流行の統体をもって言えば、ただこれを乾と呼んで包まないところはない。その動静によってこれを分かつことで、はじめて陰陽・剛柔の別が生ずるのである。

六爻揮きて傍ら情に通ずるなり。傍通とは曲を尽くすというような意味である。時に六龍に乗じて以て天を御するなり。雲行ぎ雨施して天下平らかなり。聖人が時に六龍に乗じて天を御すれば、天の雲が行き雨が施されて天下が平らかになるようなものであることを言っている。この第五節は重ねて首章の意を述べている。君子は徳を成すをもって行いと為し、日々に示すべき行いなり。潜の言たるや、隠れていまだ見われず、行いていまだ成らず、是を以て君子用いざるなり。

「行」はともに去声。「未見」の見の音は現。成徳とはすでに成就した徳である。初九はもとより徳を成しているが、ただその行いがまだ現れていないだけである。君子は学びてこれを集め、問いてこれを弁じ、寛をもってこれに居り、仁をもってこれを行う。易に曰く「見龍田に在り、大人を見るに利ろし」とは君徳なり。これら四者によって大人の徳を成すのである。重ねて君徳と言って、九二が大人の徳であることを深く明らかにしている。九三は剛を重ねて中ならず、上は天に在らず、下は田に在らず。ゆえに乾乾とし、その時に因りて惕るれば、危うしといえども咎なからん。

「重」は平声。下も同じ。剛を重ねるとは陽爻・陽位をいう。九四は剛を重ねて中ならず、上は天に在らず、下は田に在らず、中は人に在らず。ゆえにこれに或う。これに或うとはこれを疑うなり。ゆえに咎なし。九四は剛を重ねるのではない。「重」の字はおそらく衍字である。「人に在り」とは九三を指す。「或う」とは時に随って未定なことである。夫れ大人とは、天地とその徳を合わせ、日月とその明を合わせ、四時とその序を合わせ、鬼神とその吉凶を合わす。天に先だちて天違わず、天に後れて天の時を奉ず。天すら且つ違わず、而るを況んや人に於いてをや、況んや鬼神に於いてをや。

「夫」は音は扶。「先」「後」はともに去声。大人とは爻辞の利見の大人を解釈したものである。この徳があってその位に当たることで、はじめてこれに当たるに足る。人と天地鬼神とはもともと二つの理ではなく、ただ「我が私」に蔽われるがゆえに形体に梏われて相通ずることができないのである。大人は無私にして道を体とするから、どうして彼此や先後の区別を論ずることがあろうか。「天に先だちて違わず」とは心の所為がひそかに道と一致することをいい、「天に後れて天を奉ず」とは理がこのようであることを知って尊奉して行うことをいう。回紇が郭子儀に「卜者が言うには、この行で一人の大人を見て還るであろうとのことだったが、その占いはまさにこれと合致した」と言った。子儀のような人物は夫子の論じられた境地には及ばないといえども、その至公無私は当時の大人と称するに足るものであった。

亢の言たるや、進むを知りて退くを知らず、存するを知りて亡ぶるを知らず、得るを知りて喪うを知らず。「喪」は去声。ゆえに動けば悔いがある。其れ唯だ聖人か。進退存亡を知りてその正しきを失わざる者は、其れ唯だ聖人か。その理の勢いがこのようであることを知り、これに処するに道をもってすれば、悔いあるに至らない。もとより私心を計って害を避けるのではない。重ねて「其れ唯だ聖人か」と言ったのは、初めは設問のようにして最後に自ら応えたのである。この第六節は第二・第三・第四節の意を重ねて述べている。

伊川易伝卦辞

上古の聖人が始めて八卦を画かれたとき、三才の道はすでに具わっていた。それに因ってこれを重ね、天下の変を尽くした。ゆえに六画にして卦を成したのである。乾を重ねて乾為天とする。乾は天である。天とは天の形体であり、乾とは天の性情である。乾は健やかである。健やかで息まないことを乾と謂う。およそ天を一括して言えば道であり、「天すら且つ違わず」がこれである。分けて言えば、形体をもってこれを天と謂い、主宰をもってこれを帝と謂い、功用をもってこれを鬼神と謂い、妙用をもってこれを神と謂い、性情をもってこれを乾と謂う。乾は万物の始めであるから、天となり、陽となり、父となり、君となる。元・亨・利・貞を四徳と謂う。元とは万物の始め、亨とは万物の成長、利とは万物の成遂、貞とは万物の成就である。ただ乾坤のみにこの四徳があり、他の卦にあっては事に随って変化する。ゆえに元はもっぱら大いなる善となり、利は正固を主とし、亨と貞の体はおのおのその事に称う。四徳の義は広くして大いなるものである。

伊川易伝彖伝

卦の下の辞を彖といい、夫子がこれに従って釈されたものも通じて彖という。彖とは一卦の義を言うものである。ゆえに知者はその彖辞を観れば思いは半ばに過ぐるのである。「大なる哉乾元」とは、乾元が万物を始原とする道の大いなることを賛えたものである。四徳の元は五常の仁のごときものであり、偏して言えば一事であるが、専らに言えば四者を包む。「万物資りて始まる、乃ち天を統ぶ」とは、元を言っている。乾元とは天の道を統べて言うのである。天道は万物を始め、物は天に資りて始まる。「雲行ぎ雨施して品物流形す」とは亨を言っている。天道が運行して万物を生育することである。「天道の終始を大明すれば、卦の六位時に成る」とは、卦の初終が天道の終始であり、この六爻の時に乗ずるのが天の運行であることを言う。「以て天を御す」とは、天運に当たることを謂う。乾道が変化して万物を生育し、大・小・高・低がおのおのその類をなし、おのおの性命を正しくする。天が賦与するものを命とし、物が受けるものを性とする。「太和を保合するは乃ち利貞なり」の保とは常に存すること、合とは常に和することであり、太和を保合するがゆえに利にして且つ貞である。天地の道が長久にして息まないのは、太和を保合するからである。天は万物の祖であり、王は万邦の宗である。乾道が多くの物の上に抜きん出て万類が亨通し、君道が尊く天位に臨んで四海が従う。王者が天の道を体とすれば、万国はことごとく安寧となる。

伊川易伝大象伝

卦の下の象は一卦の象を解し、爻の下の象は一爻の象を解す。諸卦はみな象を取って法とする。乾道の万物を覆い育む象は至大であり、聖人でなければ体現できない。すべての人が法とできるように欲したため、その行健を取ったにすぎない。至健はもとより以て天道を見るに足りる。君子が自ら彊めて息まないのは、天の行いの剛健なるに法るのである。

伊川易伝文言伝

他の卦は彖と象のみであるが、乾坤の二卦だけはさらに文言を設けてその義を発明し、乾の道を推し広げて人事に施した。元亨利貞は乾の四徳であり、人にあっては、元はあらゆる善の首であり、亨は嘉美の集まりであり、利は義に和合することであり、貞は事を幹とする用である。乾の仁を体として法るのが君長の道であり、人に長たるに足りる。「仁を体す」とは元を体することである。比してこれに倣うことを「体」という。会通の嘉美を得てこそ礼に合する。礼に合わなければ道理に合わない。どうして美とすることができようか。理に合わなければどうして亨通があろうか。

義に和してこそ物を利することができる。その宜しきを得ずに物を利することなどできようか。貞固であるからこそ事を幹とすることができる。この四徳を行ってこそ乾に合するのである。潜龍である。これより以下は乾の用、用九の道を述べている。初九は陽の微小なもので、龍徳が潜伏し隠れている。すなわち聖賢が微賤の地位にあることである。その道を守って世俗とともに変わらず、その行いを隠して時に知られることを求めず、自ら信じ自ら楽しみ、可を見て動き、難を知って避ける。その守りは堅固で奪うべからざるものがある。これが潜龍の徳である。君徳である。

龍徳をもちながら正中に処する者である。卦の正中に在るのは正中の義を得ているからである。日頃の言葉も信実であり日頃の行いも慎み深く、とっさの時にも必ずこのようである。すでに過ちなき処に身を置いているならば、ただ邪を閑ぐことにある。邪が閑がれれば誠が存する。世を善くしても誇らず、その善を有としない。徳が博くして教化が及び、己を正しくして物が正しくなる。これらはみな大人の事であり、君位にはないが君の徳である。

以て幾と与にすべく、終るを知りてこれを終るは以て義を存すべし。是の故に上位に居りて驕らず、下位に在りて憂えず。故に乾乾として其の時に因りて惕るれば、危うしといえども咎なからん。

三は下の上の位に居り、君徳はすでに顕れている。まさに何を為すべきか。ただ徳を進め業を修めるのみである。内において忠信を積むことは徳を進めるゆえんであり、言を選び志を篤くすることは業に居くゆえんである。「至るを知りてこれに至る」とは知を致すことである。至る所を知ることを求めて後にこれに至る。知が先にあるゆえに「以て幾と与にすべし」という。いわゆる「条理を始める」のは知の事である。「終るを知りてこれを終る」とは力行である。すでに終る所を知れば、力を尽くして進みこれを終える。守りが後にあるゆえに「以て義を存すべし」という。いわゆる「条理を終える」のは聖の事である。これが学の始終である。君子の学はこのようであるから、上下に処する道を知って驕りも憂えもなく、怠らずして畏れを知り、危うき地に在りといえども咎なきを得るのである。

周易注彖伝

天とは形の名前である。健とはその形を用いる者のことである。およそ形というものは物の煩いとなるものである。天の形をもちながら永く保って欠けることがなく、物の首となり、これを統べる者は、至極剛健なものでなくて何であろうか。終始の道を大いに明らかにするがゆえに、六位はそれぞれの時を失わずに成り、昇降は一定でなく時に応じて用いられ、居れば潜龍に乗じ、出れば飛龍に乗ずる。ゆえに「時に六龍に乗ず」というのである。変化に乗じて大器を統御し、静なるときは専一、動くときは実直であり、大和を失わない。これこそ性命の情を正しくするものではないか。和せずして剛暴である。

万国が安寧である所以は、それぞれに君があるからである。

周易正義彖伝

「彖に曰く、大なる哉乾元」から「各々性命を正しくす」まで。正義に曰く、夫子の作られた彖辞は一卦の義を統括して論ずるものであり、あるいはその卦の徳を説き、あるいはその卦の義を説き、あるいはその卦の名称を説く。ゆえに『略例』に「彖とは何か。一卦の体を統論し、その由って来る主を明かすものである」という。案ずるに、褚氏・荘氏はいずれも「彖とは断なり、一卦の義を断定するものであり、それゆえ彖と名づける」という。ただしこの彖は乾と元亨利貞の徳を解釈している。諸儒がこの彖の四徳を分析して説くところは、各人意を異にしている。今案ずるに、荘氏の説が道理においてやや綿密であるため、これに依拠して用いる。「大なる哉乾元、万物資りて始まる、乃ち天を統ぶ」とは、この三句で乾と元を包括して釈している。「乾」は卦名であり、「元」は乾徳の首であるため、元の徳を乾に配して解釈した。「大なる哉乾元」とは、陽気が広大であり乾の体が遠大であり、また元の大いなることによって万物を生じ始めるゆえに「大なる哉乾元」という。「万物資りて始まる」とは、「乾元」を「大」と称する義を釈したものであり、万象の物がみな乾元に資り取っておのおの生じ始めることを得てその宜しきを失わないがゆえに、「大」と称するのである。「乃ち天を統ぶ」とは、至健にして物の始原となることによって、これによって天を統領することができるということである。天は有形の物であるが、その至健ゆえに有形を統率することができる。これが「乾元」の徳である。「雲行ぎ雨施して、品物流形す」とは、この二句は「亨」の徳を釈したものである。乾が天の徳を用いて雲気を流行させ雨澤を施布し、それゆえ万類の物が広く行き渡って形を成し、おのおの亨通を得て閉塞することがない、これがその「亨」である。「終始を大明すれば、六位時に成る」とは、この二句は乾卦の徳を総括して結んだものである。乾の徳たるや万物の終始の道を大いに悟り明らかにしており、始めは潜伏し終りは飛躍し、潜むべきときは潜み飛ぶべきときは飛ぶ。このように始終の道に明達しているゆえに、六爻の位が時に応じて成るのである。もし終始の道に明るくなければ、潜むべき時に飛び飛ぶべき時に潜み、生かすべき時に殺し殺すべき時に生かすこととなり、六位は時に応じて成ることはない。「時に六龍に乗じ、以て天を御す」とは、この二句は「乾元」「乃ち天を統ぶ」の義を申し述べて明らかにしたものである。乾の徳たるや時に応じて六爻の陽気に乗駕し、以て天体を制御統御することを言っている。六龍とはすなわち六位の龍である。その居る上下をもって言えば六位といい、陽気の昇降をもって言えば六龍という。上文では至健・元始をもって乾徳を総括して明かしたゆえに「乃ち天を統ぶ」といった。ここでは六龍に乗駕しておのおのその事を分掌するゆえに「以て天を御す」という。「乾道変化して、各々性命を正しくす」とは、この二句はさらに乾元が始原を資す義を申し述べて明らかにしたものである。道体は無形であり、自然に物を開通させることを「道」という。乾卦の徳が自然に物を通じさせるゆえに「乾道」という。「変」とは後のものが前を改め、漸進して移り変わることを変という。「化」とは一たび有となり一たび無となり、にわかに改まることを化という。乾の道たるや物に漸変させ、物に卒化させ、おのおのよく物の性命を正しく定めることを言っている。性とは天生の素質であり、剛柔や遅速の区別の如きものである。命とは人が稟受するところのものであり、貴賤や夭寿の類の如きこれである。

注の「天とは形の名前である」から「性命の情を正しくするものではないか」まで。正義に曰く、およそ形というものは物の煩いである。およそ有形の物は形をもって煩いとし、含生の類はおのおの性命を憂える。天地は有形であるとはいえ常に永く保って欠けることがなく、物の首となっているのは、これを統御し用いる者が至極剛健であるからに他ならないではないか。もし至健でなければ、どうして天の形を無累ならしめることができようか。その無累なるを見て、はじめて「至健」なるを知るのである。「変化に乗じて大器を御す」とは、変化に乗ずるとは潜龍や飛龍の類に乗ずることである。「大器を御す」の大器とは天をいう。この潜龍・飛龍に乗じて天体を制御統御し、それゆえ運動して息まない。ゆえに「大器を御す」という。「静なる時は専一、動く時は実直にして、大和を失わず」とは、乾の体たるや、その静止している時は専一で転移せず、その運動する時は正直で傾き邪よらないことをいう。ゆえに『繋辞上伝』に「夫れ乾は其の静や専、其の動や直、是を以て大いに生ず」とある。韓康伯の注に「専とは専一である。直とは剛正である」という。「大和を失わず」とは下文の「太和を保合す」がこれである。「性命の情を正しくする者にあらずや」とは、乾がよく物の性命を正しく定めるがゆえに「性命の情を正しくする者にあらずや」というのであり、物の性命におのおの情があることをいい、天の情ではない。天にはもとより情はなく、何の情があろうか。ただ物の性命におのおの情がある。稟受して生ずるものを性といい、時に随って思い慮るものを情という。無識には情がないが、今は有識に拠って言っているがゆえに「情」と称するのである。夫子の彖の体裁は一卦の義を断定して明らかにするもので、体例は一様ではない。荘氏は凡そ十二の体裁があるとするが、今は大綱を挙げるにとどめ、事ごとに細かく説くことはできない。荘氏のいう「彖が冒頭で卦を賛美するもの」としては、この『乾為天』の彖の「大なる哉乾元」、『坤為地』の彖の「至れる哉坤元」の類である。乾坤は徳が大であるため、まずこれを賛美し、その後にその義を詳説したのである。あるいはまず文を重ねて義を解し、その後に感嘆するものとしては、『雷地豫』の彖の「豫の時義大なる哉」の類がこれである。あるいはまず卦名の義を釈し、後に卦名をもって結ぶものとしては、『天火同人』の彖の「柔位を得中を得て乾に応ずるを同人と曰う」、『火天大有』の彖の「柔尊位大中を得て上下これに応ずるを大有と曰う」の例がこれである。あるいは特に卦名を重ねてその卦を称するものとしては、同人の彖に「同人に曰く、同人于野、亨」とあり、注に「『同人于野、亨、大川を渉るに利ろし』とは二の能くするところにあらず。これ乾の行うところなり、故に特に『同人に曰く』という」とある。これらは文章の体裁が異なり、ただ同人の彖のみが特に「同人に曰く」と称し、注もまた別に解釈している。その他の諸卦の彖は、詳しかったり簡略であったり、先であったり後であったりして、上下が参差として体例は不同であり、解釈が難しいものもあれば容易で簡略に解せるものもある。もし一々並べて節例を曲作するならば、聖人の本来の趣旨ではなく、学ぶ者がいたずらに労して心に解せないことを恐れる。今はいずれも略して言わないが、必ずその義があり、卦の下で具さに説く。

正義に曰く、この二句は「利貞」を解釈したものである。純陽は剛暴であり、もし和順がなければ物は利を得られず、またその正しさを失う。よく大利の道を保安合会することによって、万物において利貞とすることができるのであり、万物が利を得て貞正となることを言っている。

正義に曰く、上より以来はみな乾徳が自然に万物を養う道を論じた。この二句は聖人が上に乾徳に法り、万物を生養することを論じている。聖人が君となって衆物の上に立ち、物において最も尊高であり、頭首を衆物の上に出し、おのおの君長を置いて万国を領するがゆえに、万国がみな安寧を得るのである。人君の位は実に尊高であるゆえに、ここに「庶物に首出動す」というのである。しかし志は卑下に処さねばならず、ゆえに前の経文には「首なきは吉なり」というのである。ただ前文において乾が天徳を用いることをすでに詳しく説いたため、この文では聖人が人事をもって乾を象ることを文において簡略にしたのである。これを以て言えば、聖人もまたまさに万物を資り始まらしめ、天位を統領して「雲行ぎ雨施し」、恩澤を散布して庶民万物がおのおのその形を流布するようにさせ、また盛衰終始の道を大いに明らかにし、天地四時貴賤高下をおのおの時によって成らしめなければならない。また群賢を任用して聖化を奉行させ、物におのおの性命を正しくさせる。これこそ聖人が乾に象って教化を立てる所以である。

周易正義大象伝

「象に曰く天行健なり」から「自ら強めて息まず」まで。正義に曰く、これは『大象』である。『十翼』の中の第三翼であり、一卦を総括して象るがゆえに「大象」という。万物の体は自然におのおの形象を備えており、聖人は卦を設けて万物の象を写し取った。今、夫子がこの卦の象るところを釈されるがゆえに「象に曰く」という。天には純剛があり、それゆえ剛健なる用がある。いま純陽の卦を画いてこれに比擬したゆえに「象」という。象が彖の後にあるのは、彖が詳しく象が簡略だからである。ゆえに思索が半ばに過ぐるという義は彖にあり象にないのは、由って来るところがある。「天行健」とは、行とは運動の称であり、健とは強壮の名である。「乾」は多くの健の訓釈である。いま大象が他の健を取って解釈せず、偏に「天」を言うのは、万物の壮健にはみな衰退や懈怠があるが、天の運動だけは日に一度を過ぎ、運行が混没してかつて休息することがないからであり、ゆえに「天行健」という。健は「乾」の訓である。順は「坤」の訓である。坤には「地勢坤」という。ここで「天行乾」と言わずに「健」と言うのは、劉表が「その名を詳しくしたのである」という通りである。天は体の名であり、乾は用の名であり、健はその訓であって、三者が併せて現れて最も詳細を極めており、それゆえ乾を尊ぶことは他の卦と異なっている。およそ六十四卦において象を説くことは同じではない。あるいは象の由って来る所を総括して挙げ、象の実体を論ぜず、また六爻を総包して上体・下体を示さないものがあり、乾・坤の二卦がこれである。あるいはただ上下の二体をそのまま挙げるものがあり、「雲雷は屯なり」「天地交わるは泰なり」「天地交わらざるは否なり」「雷電は噬嗑なり」「雷風は恒なり」「雷雨作興するは解なり」「風雷は益なり」「雷電皆至るは豊なり」「洊雷は震なり」「随風は巽なり」「習坎は坎なり」「明両作するは離なり」「兼山は艮なり」「麗沢は兌なり」の如きがこれである。凡そこれら十四卦は、みな両体を包挙して義を結んでいる。両体がともに成ることを取り、あるいは上下相対して両体を直截に挙げるものがあり、「天と水と違いて行くは訟なり」「上天にして下沢なるは履なり」「天と火と同ずるは同人なり」「上火にして下沢なるは睽なり」の類である。凡そこれら四卦は、あるいは両体が相違うを取り、あるいは両体が相合するを取り、あるいは両体が上下相承けて卦を成すを取り、ゆえに両体を相対させてともに言っている。上下の二体が共に一卦を成すといえども、あるいは直截に上体を指して文を成すものがあり、「雲天に上るは需なり」「風天上に行くは小畜なり」「火天の上に在るは大有なり」「雷地を出でて奮うは豫なり」「風地上に行くは観なり」「山地に附くは剥なり」「沢木を滅するは大過なり」「雷天の上に在るは大壮なり」「明地上に出づるは晋なり」「風火より出づるは家人なり」「沢天に上るは夬なり」「沢地上に在るは萃なり」「風水上に行くは渙なり」「水火の上に在るは既済なり」「火水の上に在るは未済なり」の如きがこれである。凡そこれら十五卦は、みなまず上象を挙げて下に連ね、意として上象を取って卦名を立てている。また意は上象にありながら、まず下象を挙げて上象を出すものがあり、「地上に水有るは比なり」「沢の上に地有るは臨なり」「山の上に沢有るは咸なり」「山の上に火有るは旅なり」「木の上に水有るは井なり」「木の上に火有るは鼎なり」「山の上に木有るは漸なり」「沢の上に雷有るは帰妹なり」「山の上に水有るは蹇なり」「沢の上に水有るは節なり」「沢の上に風有るは中孚なり」「山の上に雷有るは小過なり」の如きである。凡そこれら十二卦は、みなまず下象を挙げて以て上象を出し、意として上象を取り下象と相共に卦を成している。あるいはまず上象を挙げて下象を出し、義として下象を取って卦義を成すものがあり、「山下泉出づるは蒙なり」「地中に水有るは師なり」「山下に風有るは蠱なり」「山下に火有るは賁なり」「天下雷行くは無妄なり」「山下に雷有るは頤なり」「天下に山有るは遯なり」「山下に沢有るは損なり」「天下に風有るは姤なり」「地中に山有るは謙なり」「沢中に雷有るは随なり」「地中木を生ずるは升なり」「沢中に火有るは革なり」の如きである。凡そこれら十三卦は、みなまず上体を挙げ、後に下体を明らかにしている。その上体が天であれば天と山には「下」といい、もし上体が地であれば地と沢には「中」という。あるいはまず下象を挙げながら上象の下に在りと称するものがあり、「雷地中に在るは復なり」「天山中に在るは大畜なり」「明地中に入るは明夷なり」「沢に水なきは困なり」の如きである。これはまず下象を挙げて上象の下に在りと称し、同じく義として下象を取って卦を立てている。論ずるところの例はみな大枠を論じたものであり、その間の微細な委曲は各卦の下において別個に詳説する。先儒がいうところでは、これら象辞には実象もあれば仮象もある。実象とは「地上に水有るは比なり」「地中木を生ずるは升なり」の如きで、みな虚妄ではないゆえに実という。仮象とは「天山中に在り」「風火より出づ」の如き類であり、実際にはこのような象はなく、仮託して義をなすゆえに仮という。実象・仮象の別はあるが、いずれも義をもって人に示すものであり、総じてこれを「象」という。「天行健」とは、天体の運行が昼夜息まず、周旋して再び始まり、時に虧け退くことがないことをいい、ゆえに「天行健」という。これは天の自然の象を謂う。「君子以て自ら強めて息まず」とは、人事をもって天の行うところに法ることであり、君子たる人はこの卦象を用いて自ら勉め励み、止み休息することがないことを言っている。「君子」という者は、上位に君臨して下民を慈愛する者をいい、天子・諸侯に通じ、領地を有する公卿大夫を兼ねる。およそ「君子」という義はみな然りである。ただ位の尊い者は卦を象る義が多く、位の卑しい者は卦を象る義が少ない。ただ力を量りて行い、おのおのその卦に法るべきであり、それゆえ諸卦で並べて「君子」と称するのである。もし卦体の義が天子のみに施され、下にある者を兼ね包まない場合は、「先王」という。『比卦』に「先王以て万国を建て」、『豫卦』に「先王以て楽を作り徳を崇び」、『観卦』に「先王以て方を省み民を観て教を設け」、『火雷噬嗑』に「先王以て罰を明らかにし法を勅し」、『復卦』に「先王以て至日に関を閉ざし」、『無妄』に「先王以て茂んに時に対えて万物を育て」、『渙卦』に「先王以て帝を享し廟を立つ」というが如きである。『地天泰』に「後以て天地の道を財成し」、『姤卦』に「後以て命を施し四方に誥ぐ」という。「後」と称するのは諸侯を兼ねており、それ以外の卦は並べて「君子」と称する。

周易正義文言伝

「文言に曰く」から「乾は元亨利貞」まで。正義に曰く、『文言』とは夫子の第七翼である。乾坤は易の門戸であり、その他の諸卦および爻はみな乾坤から出でており、義理が深奥であるため、特に『文言』を作ってこれを解き明かしたのである。荘氏は「文とは文飾のことであり、乾坤の徳が大であるゆえに特に美しく飾って文言とした」という。いま思うに夫子は易道を賛美し明示して義理を申し述べたのであり、華美に文飾したのではなく、二卦の経文を解釈したものであるから『文言』と称するのである。ここから「元亨利貞」までは乾の四徳を明かす第一節であり、「初九に曰く潜龍用うるなかれ」から「動けば悔いあり」までは六爻の義を明かす第二節であり、「潜龍用うるなかれ」から「天下治まるなり」までは六爻の人事を論ずる第三節であり、「潜龍用うるなかれ、陽気潜蔵す」から「すなわち天の則を見る」までは六爻の自然の気を論ずる第四節であり、「乾元とは」から「天下平らかなり」までは重ねて乾元の四徳の義を説く第五節であり、「君子は徳を成すをもって行いと為す」から「其れ唯だ聖人か」まではさらに六爻の義を広く明かす第六節である。今はおのおの文に従ってこれを解釈する。この第一節は乾の四徳を論じている。「元は善の長なり」より以下は乾の四徳を論じているが、乾の体たるや天の用である。およそ天地の運行造化は自然にそうなるのであり、無に因って有を生じ、無為にして自ら為す。天にはもとより心がなく、どうして「元亨利貞」の徳を造作しようか。天にはもとより名がなく、どうして「元亨利貞」の名を造作しようか。ただ聖人が人事をもってこれに擬し、この自然の功を天の四徳と謂い、下界に教えを垂れて後代の聖人に天のなすところに法らしめんとしたがゆえに、天の四徳を立てて教えを設けたのである。荘氏に曰く「第一節の『元は善の長なり』とは、天の体性が万物を生養し、善の最大なるものは生命を施し育むことに勝るものはなく、元は生を施す宗主であるゆえに『元は善の長なり』という。『亨は嘉の会なり』とは、嘉は美である。天がよく万物を通暢させ、物の美しさを集い集まらせることをいうゆえに『嘉の会』という。『利は義の和なり』とは、天がよく庶物を利益し、物におのおのその宜しきを得させて調和させ同ぜしめることをいう。『貞は事の幹なり』とは、天が中正の気をもって万物を成就させ、物をことごとく幹済させることをいう」と。荘氏の意はこの四句によって天の徳を明らかにし、四時に配した。「元」は物の始めであり時にあっては春に配し、春は発生であるゆえに下に「仁を体す」といい、仁は春である。「亨」は万物を通暢させることであり時にあっては夏に配し、ゆえに下に「礼に合す」といい、礼は夏である。「利」は義を和することであり時にあっては秋に配し、秋はすでに物が成っておのおのその宜しきに合する。「貞」は事の幹であり時にあっては冬に配し、冬はすでに収蔵して事がことごとく幹了する。五行の気においてはただ土のみを欠いている。土は四季に分かれて王となり、四気の運行は土なくしては載せられないゆえに言わないのである。「君子仁を体すれば以て人に長たるに足る」とは、これより以下は人が天のこの四徳を行うに法ることを明らかにし、君子たる人は仁道を体に包み、広く愛して生を施し、以て人に尊長たるに足りることを言っている。仁とは善であり、仁徳を行うことは天の「元」の徳に法ることをいう。「嘉会は以て礼に合するに足る」とは、君子が万物の嘉美を集会させ、以て礼に配合するに足りることをいい、天の「亨」に法ることをいう。「物を利するは以て義を和するに足る」とは、君子が万物を利益しておのおのその宜しきを得させ、以て義に和合するに足りることをいい、天の「利」に法ることをいう。「貞固は以て事を幹とするに足る」とは、君子が堅固に貞正を保って物を成就させ、事をことごとく幹済させることをいい、これは天の「貞」に法ることをいう。王事に施してこれを言えば、元は仁、亨は礼、利は義、貞は信である。智を論じないのは、これら四事を行うにはいずれも知に資らねばならないからである。また『乾鑿度』に「水土の二行は信と知を兼ねる」という。ゆえに省略して言わないのである。「君子此の四徳を行う者、故に曰く、乾は元亨利貞」とは、君子たる人はまさにこの四種の徳を行うべきである。文王が易を作って「元亨利貞」の徳を称したのは、君子にこれに法らせようとしたからである。ただこの四徳を行えば天と同功となり、聖人でなければ能わない。ただ「君子」とだけ言ったのは、易の道たるや広く法を垂れるものであるからである。もし聖人に限るならば、下の者に及ばないことを恐れる。ゆえに総じて「君子」といい、諸侯や公卿らにことごとくこれを行わせようとしたのである。ただ聖人がこの四徳を行えばその極致を尽くすことができる。君子がこの四徳を行えば、おのおの力を量りて為し、多少それぞれその分限がある。ただし乾卦は天を象るゆえに、この四徳をすべて天徳とする。しかし陰陽が会合し二象が相成れば、みな徳を有することができ、独り乾の一卦に限らない。それゆえ諸卦の中にも四徳があるが、他卦の四徳は乾に劣るところがある。ゆえに乾卦はただ直截に「四徳」を言うだけで、他には何も言わず、乾の四徳が包まないところがないことを示そうとしたのである。その他の卦の四徳の下には、さらに他の事柄が伴う。四徳が狭く劣っているゆえに余事をこれに繋げたのであり、すなわち『坤為地』の類がこれである。また四徳の上にまず余事を論ずるものもあり、『革卦』に「巳日にして乃ち孚あり、元亨利貞、悔い亡ぶ」というが如きである。「乃ち孚あり」の後に「元亨利貞」があることによって、はじめて「悔い亡ぶ」を得るのである。四徳を具えるものは、乾・坤・屯・臨・随・無妄・革の七卦である。またその卦が善ならざる卦でありながら四徳を具えているものもあり、その卦が凶であるゆえに四徳があってはじめて宜しきを得るのである。ゆえに『随卦』に「元亨利貞、乃ち咎なしを得る」というが如きである。四徳が具わっているからといって、その卦が必ずしも善とは限らない。また三徳を有するものもあり、離・咸・萃・兌・渙・小過の凡そ六卦である。三徳の中において文の現れ方は一様ではなく、あるいは上に三徳を総称して下に別個に余事を陳べるものもあり、離や咸の属がこれである。三徳の中で上下が一様でなく、『離』では「利貞亨」という。利貞によって乃ち亨を得るのである。あるいは先に「亨」といい、さらに余事を陳べ、その後に始めて「利貞」というものもあり、余事があることによって利貞を得るがゆえである。二徳を有するものは、大有・蠱・漸・山天大畜・升・困・中孚の凡そ七卦である。この二徳はあるいは事の上にこれを言い、あるいは事の後にこれを言う。後に事があることによってこの二徳を致すからである。また一徳を有するものは、蒙・師・小畜・天沢履・地天泰・謙・火雷噬嗑・賁・復・大過・震・豊・節・既済・未済の凡そ十五卦であり、いずれも一徳であって、すべて「亨」である。あるいは多くは事の上にこれを言い、あるいは事の後にこれを言う。『履卦』に「虎の尾を履む、人を咥わず、亨る」という。事があることによって亨を得るのである。以前に論じた徳とは、いずれも経文において屹然として特に徳を明らかにしているものを言ったのである。事柄に連なって徳を言っているものは数に入れない。『需卦』に「需、孚あり、光いて亨り貞吉なり」という。亨・貞の二徳があるといえども、事に連なって文を起しているゆえに数えない。『天山遁』に「亨る、小しく貞に利ろし」という。三徳があるといえども数えない。『旅卦』に「旅、小しく亨る。旅、貞吉なり」という。亨・貞の二徳があるといえども、また他事に連なるゆえに数えない。『比卦』に「原筮す、元永貞にして、咎なし」とあり、『天地否』に「否の匪人、君子の貞に利ろしからず」とある。「貞」の字があるといえども他文に連なって言われており、本卦の徳ではないゆえに数えない。『天火同人』に「同人于野、亨る」とあり、『坎為水』に「孚あり、維れ心亨る」とあり、『損卦』に「咎なし貞にすべし」とある。これらは一徳があるといえども、いずれも事に連なって言われているゆえに数えない。然る所以は、易は万象を含み事義は一様でなく、時に随って曲折変化し、一定の典要とすることはできないからである。意義があるものは各卦の下で詳説する。また卦は善でありながら徳が少ないものもあり、泰や謙、復の類は善であるが一徳にすぎない。また全く徳を有しないものもあり、豫・観・剥・晋・蹇・解・夬・姤・井・艮・帰妹の凡そ十一卦である。大略して凶卦にして徳なきものは、剥・蹇・夬・姤の属がこれである。また卦は善でありながら徳なきものもあり、晋・解の属がこれである。各卦の下で詳説する。およそ「四徳」とは、亨と貞はその徳が単独で行われ、元と利は他事に連なって配される。その意は元を亨に配し、利を貞に配するのであり、他事に配して文を成すといえども、元は大であり首であり、利は利益であり和合である。分に当たってこれを言えば各々その一徳である。ただ亨・貞に配されてともに四徳となる。元は亨に配されるといえども他事にも配され、ゆえに比卦に「元永貞」といい、『坤・六五』に「黄裳元吉」というがこれである。利もまた独り貞に利ろしいだけでなく、利ろしいとする余事は極めて多く、「大川を渉るに利ろし」「侯を建つるに利ろし」「大人を見るに利ろし」「君子の貞に利ろし」の如きである。このような類は利の字が施される所が広く、ゆえに諸卦で他事の利をいうものは数えて徳としないのである。この四徳は卦の下にあるだけでなく爻の下にもあるが、爻の下ではその事がやや少ない。ゆえに「黄裳元吉」や「天の衢に何す亨る、小貞吉大貞凶」などはみな爻の下で言われており、その利については諸爻すべてに存在している。

出典

易経 · #1 乾為天 → この日の黄暦 →